マケドニアの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 09:12 UTC 版)
「クレオメネス3世」の記事における「マケドニアの介入」の解説
紀元前226年、マンティネア市民が街からアカイア同盟の守備隊を追い払ってくれるようクレオメネスに要請してきた。クレオメネスは兵を率いて夜にマンティネアに忍び込み守備隊を駆逐すると、そのまま近くのタゲアに進軍した。さらにスパルタ軍はそこからアカイアへ進撃した。同盟軍との会戦を求めていたクレオメネスはディメに進軍し、アカイア軍の主力と対峙した。この戦いでスパルタ軍はアカイア同盟のファランクスを壊滅させ、多くの敵兵を殺し捕虜とした。さらにクレオメネスはLasiumの街を征服し、エーリス人に贈った。 しかし寡頭制を取るスパルタでは、クレオメネスの改革への反発があった。また彼の快進撃は、逆に彼に対する敵意がペロポネソス半島中に広まることにつながった。クレオメネスは、コリントスなど戦略的要地を征服していった。クレオメネスの改革は打ち負かした人々に適用されることはなかったが、それでも彼の軍事的成功に大きく貢献していた。実際、一部のアカイア人はクレオメネスの改革に含まれる債務免除や土地の均等分配に憧れていた。しかしクレオメネスは征服した人々に関心を寄せなかった。クレオメネスはアラトスと交渉を始めたものの、両者間の憎悪感情があまりに大きく、合意に至ることはできなかった。 この外交的失敗の後、アラトスはマケドニア王アンティゴノス3世と交渉し、彼を対スパルタ戦争に引き込んだ。しかしマケドニア軍は何度もスパルタの防衛線を破ってコリントス地峡のレカイオンを目指そうとしたものの果たせず、多大な損害を被った。しかしこの時アルゴスがスパルタに対し反乱を起こした。クレオメネスはこちらに2000人の兵を送った結果、コリントス地峡を放棄しマンティネアに撤退せざるを得なくなった。この時点でクレオメネスは後退するしかなくなり、マケドニア軍はアルカディアまで侵攻してきた。 ピーター・グリーンによると、クレオメネスがプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス3世から資金援助を受けて傭兵を維持していることを知ったアンティゴノス3世は、プトレマイオス3世に小アジアの領土の一部を譲り、引き換えにスパルタへの資金援助を止めさせた。その後、クレオメネスはメガロポリスに入ってこれを破壊し、アルゴス領を荒らした。しかしこうした軍事行動も戦局には影響せず、マケドニア軍に会戦を避けられ続けるスパルタ軍の敗北は不可避となっていった。紀元前222年のセッラシアの戦いで、マケドニア騎兵がスパルタ騎兵を破ったことで、スパルタ軍は敗れた。スパルタのファランクスはより層の厚いマケドニアのファランクスにより全滅に近い被害をこうむり、逃れられたスパルタ人はクレオメネスをはじめ僅かしかいなかった。
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