マケドニア・ギリシア人と現地人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:58 UTC 版)
「セレウコス朝」の記事における「マケドニア・ギリシア人と現地人」の解説
マケドニア人とギリシア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)の移住はアケメネス朝時代から散発的に始まっていたが、アレクサンドロスの征服とセレウコス朝の時代にはいよいよ本格的になった。ギリシア人殖民団とそれ以前から各地に住んでいた人々は、かなり明確に区別されていた。ティグリス河畔のセレウキアではギリシア人とバビロニア人は別個の都市を形成しており、互いに対立していたと記録されている。他の多くの地域でも、ギリシア人の政治共同体とは別に現地人の政治共同体が形成されている例が多かった。 近現代の研究者たちによって、セレウコス朝は基本的にはマケドニア人の王朝であると見なされていたし、事実セレウコス朝の主導権を握ったのはマケドニア人(ギリシア人)であった。政治的理由から対等の立場を認められた現地人の共同体もあった(例えばストラニキアにおけるカリア人など)ものの、いくつかの都市においては明らかに現地人が隷属民として扱われていたし、バビロニア人など比較的強力な集団もギリシア人に対して劣勢であったとされている。ただし、セレウコス朝領内のギリシア人人口は全体から見れば少数であり、上述した都市建設政策によってギリシア人が詰める城砦網を造ることで、数の不足を補い支配の安定を図る伝統的政策を採ったと思われる(ただし当時の都市についての研究は万全から程遠く、推論の域を出るものではない)。 現実問題としてはマケドニアによる外来王朝が、圧倒的多数の現地住民の意向を完全に無視して行動するのは不可能であったし、セレウコス朝国家自体も現地人の関与を受けないわけにはいかなかった。軍の中級以下の指揮官に各地の現地出身の将軍が用いられた例は少なくないし、一般兵員においてはギリシア人だけでは到底数が足りなかった。アンティオコス3世が編成したファランクスの構成員の過半数がオリエント各地の傭兵によって占められていたという研究もある。しかし、高級官吏や軍指揮官の地位に非マケドニア人(ギリシア人)が任用されることはやはり稀なことであった。
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