マケドニア名称論争
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/11 05:46 UTC 版)
マケドニア名称論争(マケドニアめいしょうろんそう、英: Macedonia naming dispute)は、1991年に独立したマケドニア共和国の国名を巡り、マケドニア共和国とギリシャとの間で発生した一連の対立を指す。
28年後の2019年、プレスパ合意によりマケドニア共和国が北マケドニア共和国に国名を変更することで決着した。

赤色線内:古代マケドニア王国(大凡)
背景
「マケドニア」という広域地名は、アレクサンドロス3世(大王)を出した古代マケドニア王国の故地として知られているが、現在はおおむねギリシャ北部、北マケドニア、ブルガリア南西部にまたがる地域がこの名で呼ばれており[1]、アルバニア東部も含まれる[2]。古代マケドニア王国領域の約65%がギリシャに属し、これには王都ペラやテッサロニキ、ヴェルギナなどが含まれる[3]。
6世紀以降、「マケドニア」地域にはスラヴ系の人々が定住するようになり、一帯はセルビア王国やブルガリア帝国への服属を経て、14世紀にオスマン帝国の支配下に置かれる[1]。マケドニア地域の住民はスラヴ系の他にもギリシャ系やブルガリア系、セルビア系やアルバニア系など、多様な民族で構成されていた[2][4]。1870年代以降、オスマン帝国からの独立ないし自治を果たしたギリシャ、セルビア、ブルガリアがマケドニア地域をめぐって対立する中、スラヴ系住民は自らをマケドニア人と呼称して民族意識を育んでいき、1893年には「マケドニア人のためのマケドニア」をスローガンとする内部マケドニア革命組織が結成された[4]。彼らの中にはマケドニア地域の統一を主張する人々も現れ[5]、このような主張はギリシャ人からは攻撃的なものとしてとらえられた[6]。
1912年10月から1913年5月にかけての第一次バルカン戦争でオスマン帝国が敗北すると、ギリシャとセルビアがマケドニア地域の軍事的支配を確立するが、ブルガリアがマケドニア地域の領有を主張したことで同年6月に第二次バルカン戦争が発生する[7]。ブルガリアは敗北し、同年8月にブカレスト条約が締結されることとなったが、このとき画定された国境は現在の国境線にほぼ近く[7]、マケドニア地域のおよそ5割がギリシャ領、4割がセルビア領、1割がブルガリア領となった[4]。このうちセルビア領マケドニアは第一次世界大戦後に後継国家のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に編入され、第二次世界大戦を挟んでユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国となった(マケドニア社会主義共和国)[4]。
ユーゴスラビア連邦下で、それまでセルビア人やブルガリア人、ないしギリシャ人と見なされていたスラヴ系住民はマケドニア人という民族として承認された[1]。しかし、古代マケドニア王国を想起させるギリシャ系の民族がマケドニア人であるとする立場のギリシャ、マケドニア語をブルガリア語の方言とする立場のブルガリアはスラヴ系住民をマケドニア人という民族として認めず、代わりに南スラヴ人やスコピエ人といった呼称を用いた[1]。
沿革
1990年に入ると、ソビエト連邦から東欧にかけて体制転換が相次ぎ、この流れの中でユーゴスラビア連邦も解体の道を辿っていく[8]。1991年6月、構成国だったスロベニアとクロアチアの独立宣言を受け、マケドニア社会主義連邦共和国は6月7日の憲法改正で国名をマケドニア共和国に改名し[9]、9月8日に独立の可否を問う住民投票を行い、投票結果を受けて11月17日に新憲法を採択、12月19日に憲法を発効させると同時に正式に独立を宣言した[10]。
しかしこのとき、ギリシャはマケドニア共和国という国名や、ヴェルギナの星を模した国旗のデザインが古代のマケドニア王国を想起させるとして、1913年のブカレスト条約で確定した国境線を越えた領土拡張を懸念していた[11]。このことから、ギリシャは国家承認の条件として国名の変更、ギリシャ領域への領有権主張がないことの確認、ギリシャ領域にマケドニア人マイノリティが存在しないことの確認を求めたため、マケドニアは国家承認されなかった[10][注釈 1]。1992年7月30日にマケドニアが国際連合に加盟申請したときには、ギリシャはマケドニアという名称がギリシャ領域を含む広域な範囲を指すとして反対している[13]。
1992年以降、国連事務総長代理のもと調停が行われ[10]、国連安保理は1993年4月7日、名称論争を留保しつつ、マケドニアの国連加盟承認を国連総会に勧告する決議を採択した[14]。翌8日の国連総会決議A/RES/47/225で、マケドニアの国連加盟が承認されたが、名称論争解決まで暫定的に「マケドニア・旧ユーゴスラビア共和国」という名称を使うこととなった[14][15]。マケドニアの国連加盟後もギリシャはマケドニアを承認する動きに抵抗しており、1993年12月にはマケドニアの全欧安保協力会議加盟を拒否したり[16]、欧州連合(EU)6か国がマケドニアと国交を結んだことに抗議した[12]。また、1994年3月にはマケドニアに対してテッサロニキ港での貿易を禁じる経済封鎖を発動[16][注釈 2]、折のユーゴスラビア紛争解決を模索していたEU諸国にマケドニアを国家承認しないよう働きかけた[1]。
その後、1995年9月13日[12]、ギリシャとマケドニアの間ではマケドニアの国旗変更と領土不可侵を確認する暫定合意が成立し、二国間関係は改善していく[10]。ギリシャは経済制裁を解除し[1][12]、マケドニアを国家承認することとなり、名称論争をめぐっては、交渉を継続すること、マケドニア・旧ユーゴスラビア共和国名義での国際機関加盟に反対しないこととされた[18]。合意後、マケドニアは北大西洋条約機構(NATO)の勧誘を受けてパートナーシッププログラムに参加し、1999年にはNATO加盟国行動計画に参加している[14]。一方で、2008年4月のNATOブカレストサミットでは、ギリシャは名称論争を理由にマケドニアのNATO加盟に反対し、加盟交渉は名称論争解決まで待たねばならないこととなった[19][注釈 3]。また、独立以降ヨーロッパへの統合を課題としていたマケドニアは、2001年に安定化連合協定を締結[21]、2004年3月にEUへの加盟を申請し、2005年12月には加盟候補国となったが、やはりギリシャの反対が障壁となっていた[4][22]。
名称論争に関する交渉は難航した。1993年以降はスラヴ系マケドニア、マケドニア・スコピエ共和国、新マケドニア共和国(ノバ・マケドニヤ)、ヴァルダル・マケドニア共和国、上部マケドニア共和国(ゴルナ・マケドニヤ)、スラヴ・アルバニア系マケドニア、イリンデン・マケドニアなどの国名案や、国内外で名称を使い分ける案が提示されたが、いずれも合意に達することはなかった[10][23]。
やがてマケドニアにとって名称論争はもはや国家の存続を脅かす問題ではなくなっていた[24]。2005年時点ではアメリカ合衆国や中華人民共和国含む約90か国がマケドニアとして国家承認していた[25]。2013年時点では、日本やEU加盟国10か国など、依然として一定数の国々がマケドニア・旧ユーゴスラビア共和国として国家承認していた一方、マケドニア共和国として国家承認した国は120か国以上となっていた[24]。とはいえ、ギリシャが拒否権を有する場ではギリシャ優位であり、反ギリシャを標榜するマケドニアの内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMNE)政権が自国のアイデンティティをアピールするなどの民族主義的な政策を打ち出すとギリシャは強く反発し[注釈 4]、マケドニアのNATOやEUへの加盟を阻んできた[24][27]。
以降も国連事務総長代理[注釈 5]による調停は継続していたが、マケドニアが総選挙後に内政危機に陥った折の2014年7月に調停作業が中断された[28]。マケドニアでは他にも、2015年2月に政権による電話盗聴が発覚したほか、2016年にはカラフル革命と呼ばれる反政府運動が発生し、政権支持者と反対者が衝突していた[28]。こうした状況下で2016年にやり直し総選挙が行われることとなり、VMRO-DPMNEが僅差で第一党となったが、連立を組んでいたアルバニア人政党と二言語主義をめぐり折り合わず、2017年5月、代わってマケドニア社会民主同盟(SDSM)率いる連立政権が成立した[28]。
プレスパ合意

SDSM率いる連立政権はNATOやEU加盟に向けて、前政権で膠着状態にあったギリシャとの関係改善に取り組み始めた[28]。この状況下で国連事務総長代理による調停作業も再開され、2018年1月の調停ではマケドニアの国名について5案が提示された[28][注釈 6]。提案を踏まえ、同年のダボス会議でマケドニアのゾラン・ザエフ首相とギリシャのアレクシス・ツィプラス首相の会談が行われ、両者は外相級の交渉継続で合意した[28]。
4月12日の外相会談では新名称として「上部マケドニア」が有力との情報が報じられたが、使用する場面や憲法改正の可否について審議継続となった[28]。5月27日の外相会談では大枠の合意に達したことが明かされ、続く6月12日に行われた首相会談で、北マケドニア共和国を正式な国名とすること、マケドニア語を北マケドニア共和国の主要言語の名称として承認することが合意された[30]。6月17日、ギリシャのプサラデスで、両国の外相、国連調停者のニメッツが合意文書に署名する式典が行われ、両国首相やEU関係者も参列した[30]。署名式がプレスパ湖畔で行われたことから、この合意は通称プレスパ合意と呼ばれる[31]。
合意を受け、北マケドニアでは2018年9月30日、プレスパ合意を受け入れてEUとNATOに加盟することの是非を問う国民投票が行われることとなった[32]。合意をめぐっては支持勢力が多かった一方で、否定的側面に関する議論も行われ、VMRO-DPMNEは憲法に基づく国家の尊厳や一体性を損なうものとして激しく非難し、ジョルゲ・イヴァノフ大統領は自決権の原則を侵害するもので両国国民を分断しかねないと懸念を表明するなどしていた[33]。成立阻止のために国民投票をボイコットする動きも見られた[33]。投票の結果、賛成票の得票率は9割に達したが、投票率が50%を超えなかったため、結果は法的拘束力を持たないものとなった[33][34][注釈 7]。
法的拘束力がないとはいえ、賛成多数の結果を受けてザエフ首相は10月8日にマケドニア共和国議会に国名変更のための憲法改正案を提出、提案は10月19日に賛成多数で可決されたが、イヴァノフ大統領が拒否権を発動し、再審議となった[36]。審議が長引くにつれて野党再編の動きや国名変更に抗議するデモが相次いだが、2019年1月11日に大統領署名を必要としない憲法改正案が投票にかけられると、賛成多数で可決され、翌12日に国名変更の公布と合意批准のギリシャへの通告が行われた[36]。野党勢力の切り崩しが行われた結果、憲法改正に必要な80票をわずかに上回る81票での可決となった[37]。
ギリシャにおいても合意に反対する声があり、合意に先立つ2018年6月にはギリシャの25都市で大規模デモが発生している[23]。政権内部では意見対立により署名者のコジアス外務相ら閣僚数人が辞任したほか、最大野党の新民主主義党の反対に遭い、ツィプラス首相に対する不信任決議案が議会に出されている[36]。合意は1月25日の採決の結果、賛成153票、反対146票で批准され、マケドニアの国名変更で論争は決着した[38][39]。同年2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した[40]。
プレスパ合意後
合意を批准したギリシャであったが、依然として反対の声が根強く、財政問題や難民問題の不満も重なった結果、合意後の2019年5月に行われた欧州議会選挙と統一地方選挙ではキリアコス・ミツォタキス率いる野党新民主主義党が大勝し、7月の総選挙においても多数の議席を獲得したことで政権交代となった[36]。首相となったミツォタキスはプレスパ合意を一方的に破棄する意向はないこと、北マケドニアとの友好関係は維持する方針であることを北マケドニア側に伝えている[36]。名称論争が一旦解決したことで北マケドニアとNATO加盟国は2019年2月にNATO加盟文書に署名し、2020年3月には30番目のNATO加盟国となった[41][42]。
合意では旧国名のマケドニアやマケドニア共和国、暫定名称のマケドニア・旧ユーゴスラビア共和国の公式使用を停止するものとされた[30]。これにより、北マケドニアでは運転免許証やパスポートなど公的書類上の国名表記を変更する手続きが進められたものの、当初期限とされていた2024年2月12日までに約65万人の手続きが間に合わず、問題視された[43]。
ブルガリアとの対立
EU加盟交渉に関しては、今度はブルガリアがマケドニアやマケドニア語の認識をめぐり異議を唱えたことで難航した[41]。北マケドニアは2020年3月のEU理事会で加盟交渉が決まり、7月に交渉枠組みを済ませたものの[22]、ブルガリアは2019年10月に立てた方針でマケドニア語ではなく原則「北マケドニア共和国公式言語」という表現が使用されるべきとする見解を示し、北マケドニアとの政府間会議を求め、2020年3月にも同様の見解を欧州理事会に伝え、交渉の行方はブルガリアとの協議に左右される状況となった[26][44]。
マケドニア語をめぐっては、19世紀半ば、セルビア方言とするセルビア人とブルガリア語とするブルガリア人の間で論争が行われたが、この時点では影響力のないものであった[45]。1920年代以降はマケドニア語の独立性が世界的に認知されるようになったが、ブルガリアとユーゴスラビアの関係に暗雲立ちこめる1950年代以降にマケドニア語問題が再浮上した[46]。
マケドニア正教会の独立宣言やチェコスロバキア侵攻でますます二国間関係が悪化した1968年以降、ブルガリアは反マケドニア語の姿勢を硬化させ、マケドニア語を独立した言語として扱う著作を回収したり、マケドニア語の独立性に言及した研究者を解雇しており、ソビエト連邦では友好国のブルガリアに配慮して学士院でのマケドニア語研究が事実上禁じられていた[47]。ブルガリアは共産党政権が終わった1990年以降も、マケドニアを独立国家として承認する一方、マケドニア語の不当性を説く冊子類を刊行してきた[48]。2020年5月にもマケドニア語がブルガリア語の一形態だとする冊子がブルガリア学士院より刊行され、これに対してマケドニア科学・芸術アカデミーやマケドニア語研究所は反論文書を公表している[49]。
その後の北マケドニアで2020年7月に行われた総選挙ではザエフ首相率いるSDSM連合が第一党となりつつも前回より3議席減らす結果となり、2021年10月の統一地方選挙では42市で勝利したVMRO-DPMNEに対しSDSM連合は16市での勝利に留まり、翌月提出された政府の不信任決議案は否決されたが、ザエフら主要閣僚は12月に辞任した[50]。ブルガリアでは2021年に総選挙後に組閣に失敗する出来事が2度あり、11月の総選挙で我々は変革を継続する率いる連合に政権が交代している[51]。
2022年1月16日、北マケドニアでディミタル・コバチェフスキ内閣が成立すると、翌17日にブルガリアのキリル・ペトコフ首相がスコピエを訪れ、25日にソフィアで行われた政府間会議では多分野における二国間の協力と意思疎通で合意した[50]。折のロシアのウクライナ侵攻もあり、北マケドニアがEU加盟交渉に積極的となる中で、欧州理事会議長国のフランスは6月20日に妥協案を提示し、これは北マケドニアには憲法改正で国内のブルガリア人の権利保証を明記するよう求め、ブルガリアにはマケドニア語の名称をめぐり北マケドニアのEU加盟交渉を妨げないことを求める内容であった[52]。
フランスの妥協案はブルガリアでは6月24日に賛成多数で可決されたが、野党勢力の反発があり、6月27日にペトコフ内閣に対する不信任決議案が可決されることとなった[53]。北マケドニアでも7月16日に若干の修正のすえ賛成多数で可決されたが、やはり野党勢力の反発があり、総選挙を求める抗議デモが相次いだ[54]。両国で妥協案が可決されたことで、7月18日に北マケドニアのEU加盟交渉開始枠組みが欧州理事会で承認され、翌19日から加盟交渉に関する閣僚級会議が行われるようになった[54]。
脚注
注釈
- ^ マケドニアが1993年に国連に加盟するまで、マケドニアを国家承認した国はブルガリア、トルコ、スロベニア、クロアチア、ロシアと限られていた[12]。なお、最初に国家承認したブルガリアはマケドニア人という民族の認定を否定する従来の見解を繰り返してもいる[12]。
- ^ 1994年2月とも[12]。経済制裁は諸外国から批判され、欧州司法裁判所に提訴される事態となっている[17]。マケドニアの経済は体制転換不況や国連による対ユーゴスラビア制裁も重なり、独立後1995年までマイナス成長を記録した[16]。
- ^ マケドニア側はギリシャの反対が1995年の暫定合意に違反するとして、2008年11月に国際司法裁判所に提訴し、訴えは2011年に認められている[20]。
- ^ 具体的にはスコピエに巨大なアレクサンドロス大王像を建立したり、スコピエ空港や高速道路の名称をアレクサンドロス大王にちなんで改名するなど[26][23]。
- ^ 1999年以降はマシュー・ニメッツが務めた[24]。
- ^ 新マケドニア共和国 (Republic of New Macedonia)、北部マケドニア共和国 (Republic of Northern Macedonia)、上部マケドニア共和国 (Republic of Upper Macedonia)、ヴァルダル・マケドニア共和国 (Republic of Vardar Macedonia)、マケドニア(スコピエ)共和国 (Republic of Macedonia [Skopje])[29]。
- ^ 低投票率の背景として、出稼ぎなどによる有権者数十万人の国外流出を指摘する声もある[35]。
出典
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- 松尾登史子「マケドニア考古学の成立と展開」(PDF)『西アジア考古学』第9号、日本西アジア考古学会、2008年、171-182頁。
関連項目
- 北マケドニアとギリシャの関係
- 北マケドニアとブルガリアの関係
- 北マケドニアとNATOの関係
- 北マケドニアの欧州連合加盟
外部リンク
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マケドニア呼称問題
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「マケドニア名称論争」および「統一マケドニア」も参照 アレクサンドロス大王で有名な古代マケドニア王国の領地が自国にあったギリシャは、「本来のマケドニアはギリシャである」と主張している。実際、マケドニアとは北マケドニア共和国のほかにギリシャ(ギリシャ領マケドニア)やブルガリア(ピリン・マケドニア)、アルバニア(マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド)のそれぞれ一部にもまたがる地域の名称である。特にギリシャ領はマケドニア地方の5割ほどを占めており、北マケドニア共和国の領土は全体の4割に満たない事に加え、アイガイ(現ヴェルギナ)やペラ、テッサロニキ等の古代マケドニア王国当時の主要都市の多くも現ギリシャ領である。このように、歴史的な古代マケドニアとの継承性、および地理的にマケドニア地方全体の4割に満たない北マケドニア共和国が「マケドニア(共和国)」と名乗ることへの警戒感から、この国をマケドニアの名称で呼ぶことを嫌い、ヴァルダル、スコピエなどと地名を使って呼んだ。同時に、1990年代よりマケドニア共和国の国号を改めるよう要求した。これに対してマケドニア共和国の側は、共和国にはギリシャ領マケドニアへの領土的野心がないことを説明し、国名を自国で決める権利は認められるべきであると主張した。 北マケドニアがマケドニアという国名で独立した1991年以降、ギリシャはマケドニアに経済制裁を科し、マケドニアという国号、古代マケドニアと類似したヴェルギナの星を用いた国旗、「周辺国に住むマケドニア人の権利を擁護する」という内政干渉的な憲法条項の3つを改めるよう圧力を加えた。このため、マケドニアは国際的な暫定呼称を変え、国旗をヴェルギナの星とは無関係のものに改め、ギリシャ領マケドニアへの領土的野心を明確に否定する憲法改正を行い、1995年に経済制裁を解除された。この当時のマケドニアは、ユーゴスラビア崩壊によってかつてのユーゴスラビアという市場を失い、またユーゴスラビア紛争に伴って北に隣接するセルビアの経済も混迷し、また国際的な経済制裁下に置かれていた。また、冷戦終結によって東西に隣接するアルバニアおよびブルガリアの経済は混乱状態にある中、海を持たないマケドニアにとって、南に隣接するギリシャの経済制裁の威力は絶大であった。 マケドニアは1993年に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(英語表記:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称「FYROM」または「FYR Macedonia」) を国際社会における暫定的呼称として国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、この暫定名称でマケドニアとの関係を持った。しかし、2008年11月の時点で、アメリカ合衆国やロシア連邦等約125カ国の国々は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係を結んでいる。 2008年、マケドニアとアルバニア、クロアチアの北大西洋条約機構(NATO)加盟についてルーマニアの首都ブカレストにてNATO加盟国の間で議論が持たれた。この時、クロアチアおよびアルバニアの加盟が承認された一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否によって否認された。このことはマケドニア国内で激しい怒りを生み、「ブカレスト」は「ひどい仕打ち」の同義語とみなされるようになった。マケドニア側は国名に関して一定の譲歩をする代わりに、国民や国を表す形容詞として単に「マケドニアの」または「マケドニア人」と呼ばれることを望んだが、ギリシャ側はこれらを否定し、全て統一的に変更されなければならないとして譲歩を示さなかった。マケドニア側は、国名の問題に関して国際司法裁判所に提訴した。 しかし2017年に発足したゾラン・ザエフ政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。呼称問題を解決する機運が高まり、2018年1月には両国の外相会談で作業部会の設置が決定され、国連による仲介も再開される見通しとなった。2018年2月、ゾラン・ザエフ首相は新しい国名の案として「北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)」「上マケドニア共和国(Republic of Upper Macedonia)」「ヴァルダル・マケドニア共和国(Republic of Vardar Macedonia)」および「マケドニア・スコピエ共和国(Republic of Macedonia (Skopje))」の4つが挙がっていることを明らかにした。 2018年6月12日にマケドニアは国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意(プレスパ合意(英語版))が成立、17日には両国の外相が暫定的な合意文書に署名した。正式決定には両国議会で了承されることが必要となったが、両国国内には改名に反対する世論も存在した。マケドニアでは議会の最大野党が合意を非難し、またイヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明した。ギリシャでも議会の最大野党が合意に対する不支持を表明、またアテネの国会前、および署名式典が開かれた両国の国境に近いサラデス(英語版)の周辺において、抗議デモに対し警察が催涙弾などで鎮圧にあたる事態となった。 マケドニアでの国民投票は同年9月30日に実施されたが、野党側がボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまり成立条件の50%を下回ったため無効となった。今回の投票結果が法的拘束力を持たないことから、ザエフ首相は引き続き改名の手続きを進め、野党が同意しなければ総選挙を早期に実施する意向を表明した。議会の承認プロセスでは両国内で野党勢力の切り崩しなどが行われ、まず2019年1月11日にマケドニア議会が国名変更のために必要な憲法改正案を承認し、同年1月25日にはギリシャ議会で改名合意が承認され、呼称問題はマケドニアの国名変更で決着した。2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した。
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