マケドニア名称論争
マケドニア名称論争(マケドニアめいしょうろんそう、英: Macedonia naming dispute)は、1991年に独立したマケドニア共和国(現・北マケドニア共和国)の国名を巡り、マケドニア共和国とギリシャとの間で発生した一連の対立を指す。
28年後の2019年、マケドニア共和国が北マケドニア共和国に国名を変更することで決着した。

赤色線内:古代マケドニア王国(大凡)
背景
「マケドニア」という広域地名は、アレクサンドロス3世(大王)を出した古代マケドニア王国の故地として知られているが、現在はギリシャ領・北マケドニア共和国領にまたがる地域(このほか一部はブルガリア領・アルバニア領)がこの名で呼ばれており、その面積の半分強はギリシャに属している。古代マケドニア王国は古代ギリシア人によって建国された国であり、王都ペラは現在のギリシャ領に存在する。
後に「マケドニア」地域にはスラヴ系の人々が定住するようになった。19世紀末、オスマン帝国支配下のマケドニアにおいて、スラヴ系住民は自らをマケドニア人と呼称して、民族意識を育んでいった(内部マケドニア革命組織参照)。彼らの中には、マケドニア地域をスラヴ系マケドニア人によって統一しようとする「統一マケドニア」を主張する人々も現れた。このような主張はギリシャ人からは攻撃的なものとしてとらえられた。
1946年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国としてマケドニア社会主義共和国が樹立される。
沿革
マケドニア共和国が1991年に独立して以来、ギリシャは自国の文化遺産だとして国名への使用に反対してきた。さらにギリシャは、マケドニア共和国の北大西洋条約機構や欧州連合への加盟を阻むなど、対立は多岐にわたった[1]。
2018年6月にマケドニア共和国のゾラン・ザエフ首相が主導し、同国が「北マケドニア共和国」に国名変更することでギリシャのアレクシス・ツィプラス首相と合意に至った(プレスパ合意)。両国内で国名変更合意に反対する勢力が存在する中、野党勢力の切り崩しなどが行われ、まず2019年1月11日にマケドニア共和国議会が国名変更のために必要な憲法改正案を承認(賛成81票・反対39票)し[2]、同年1月25日にはギリシャ議会で改名合意が承認(賛成153票・反対146票・棄権1票)され、マケドニアの国名変更で論争は決着した[3]。同年2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した[4]。
出典
- ^ “「マケドニア」誰のもの? 長年の争い国名変更で解決か”. 朝日新聞. (2019年1月12日) 2019年1月14日閲覧。
- ^ “「北マケドニア」へ国名変更、憲法改正を承認 野党切り崩しで解決へ前進”. 産経新聞. (2019年1月12日) 2019年1月27日閲覧。
- ^ “「北マケドニア」ギリシャ国会も承認 国名論争に終止符”. 産経新聞. (2019年1月25日)
- ^ “「北マケドニア」への国名変更、国連に通知”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年2月14日) 2019年2月14日閲覧。
外部リンク
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マケドニア呼称問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:17 UTC 版)
「マケドニア名称論争」および「統一マケドニア」も参照 アレクサンドロス大王で有名な古代マケドニア王国の領地が自国にあったギリシャは、「本来のマケドニアはギリシャである」と主張している。実際、マケドニアとは北マケドニア共和国のほかにギリシャ(ギリシャ領マケドニア)やブルガリア(ピリン・マケドニア)、アルバニア(マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド)のそれぞれ一部にもまたがる地域の名称である。特にギリシャ領はマケドニア地方の5割ほどを占めており、北マケドニア共和国の領土は全体の4割に満たない事に加え、アイガイ(現ヴェルギナ)やペラ、テッサロニキ等の古代マケドニア王国当時の主要都市の多くも現ギリシャ領である。このように、歴史的な古代マケドニアとの継承性、および地理的にマケドニア地方全体の4割に満たない北マケドニア共和国が「マケドニア(共和国)」と名乗ることへの警戒感から、この国をマケドニアの名称で呼ぶことを嫌い、ヴァルダル、スコピエなどと地名を使って呼んだ。同時に、1990年代よりマケドニア共和国の国号を改めるよう要求した。これに対してマケドニア共和国の側は、共和国にはギリシャ領マケドニアへの領土的野心がないことを説明し、国名を自国で決める権利は認められるべきであると主張した。 北マケドニアがマケドニアという国名で独立した1991年以降、ギリシャはマケドニアに経済制裁を科し、マケドニアという国号、古代マケドニアと類似したヴェルギナの星を用いた国旗、「周辺国に住むマケドニア人の権利を擁護する」という内政干渉的な憲法条項の3つを改めるよう圧力を加えた。このため、マケドニアは国際的な暫定呼称を変え、国旗をヴェルギナの星とは無関係のものに改め、ギリシャ領マケドニアへの領土的野心を明確に否定する憲法改正を行い、1995年に経済制裁を解除された。この当時のマケドニアは、ユーゴスラビア崩壊によってかつてのユーゴスラビアという市場を失い、またユーゴスラビア紛争に伴って北に隣接するセルビアの経済も混迷し、また国際的な経済制裁下に置かれていた。また、冷戦終結によって東西に隣接するアルバニアおよびブルガリアの経済は混乱状態にある中、海を持たないマケドニアにとって、南に隣接するギリシャの経済制裁の威力は絶大であった。 マケドニアは1993年に「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」(英語表記:The Former Yugoslav Republic of Macedonia、略称「FYROM」または「FYR Macedonia」) を国際社会における暫定的呼称として国際連合へ加盟した。これ以後、多くの国々や国際的組織は、この暫定名称でマケドニアとの関係を持った。しかし、2008年11月の時点で、アメリカ合衆国やロシア連邦等約125カ国の国々は、暫定名称の「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」ではなく、憲法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係を結んでいる。 2008年、マケドニアとアルバニア、クロアチアの北大西洋条約機構(NATO)加盟についてルーマニアの首都ブカレストにてNATO加盟国の間で議論が持たれた。この時、クロアチアおよびアルバニアの加盟が承認された一方、マケドニアの加盟はギリシャの拒否によって否認された。このことはマケドニア国内で激しい怒りを生み、「ブカレスト」は「ひどい仕打ち」の同義語とみなされるようになった。マケドニア側は国名に関して一定の譲歩をする代わりに、国民や国を表す形容詞として単に「マケドニアの」または「マケドニア人」と呼ばれることを望んだが、ギリシャ側はこれらを否定し、全て統一的に変更されなければならないとして譲歩を示さなかった。マケドニア側は、国名の問題に関して国際司法裁判所に提訴した。 しかし2017年に発足したゾラン・ザエフ政権はNATOやEU加盟を目指すため従来の強硬姿勢を改め、これをギリシャ側も好感。呼称問題を解決する機運が高まり、2018年1月には両国の外相会談で作業部会の設置が決定され、国連による仲介も再開される見通しとなった。2018年2月、ゾラン・ザエフ首相は新しい国名の案として「北マケドニア共和国(Republic of North Macedonia)」「上マケドニア共和国(Republic of Upper Macedonia)」「ヴァルダル・マケドニア共和国(Republic of Vardar Macedonia)」および「マケドニア・スコピエ共和国(Republic of Macedonia (Skopje))」の4つが挙がっていることを明らかにした。 2018年6月12日にマケドニアは国名を北マケドニア共和国とすることでギリシャとの政府間合意(プレスパ合意(英語版))が成立、17日には両国の外相が暫定的な合意文書に署名した。正式決定には両国議会で了承されることが必要となったが、両国国内には改名に反対する世論も存在した。マケドニアでは議会の最大野党が合意を非難し、またイヴァノフ大統領は承認を拒否する方針を表明した。ギリシャでも議会の最大野党が合意に対する不支持を表明、またアテネの国会前、および署名式典が開かれた両国の国境に近いサラデス(英語版)の周辺において、抗議デモに対し警察が催涙弾などで鎮圧にあたる事態となった。 マケドニアでの国民投票は同年9月30日に実施されたが、野党側がボイコットを呼び掛けたこともあり、投票率は約37%にとどまり成立条件の50%を下回ったため無効となった。今回の投票結果が法的拘束力を持たないことから、ザエフ首相は引き続き改名の手続きを進め、野党が同意しなければ総選挙を早期に実施する意向を表明した。議会の承認プロセスでは両国内で野党勢力の切り崩しなどが行われ、まず2019年1月11日にマケドニア議会が国名変更のために必要な憲法改正案を承認し、同年1月25日にはギリシャ議会で改名合意が承認され、呼称問題はマケドニアの国名変更で決着した。2月12日に改名が発効し、翌13日には国名変更を国際連合に通知した。
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