国名問題と国家承認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 15:50 UTC 版)
「北マケドニアの歴史」の記事における「国名問題と国家承認」の解説
「マケドニア呼称問題」も参照 マケドニア共和国が独立した時、連邦からの平穏な脱退、アルバニア人問題と並んで直面したもうひとつの大きな政治問題に、共和国の国名や民族自認、諸外国からの国家承認に関するものがあった。国名を「マケドニア」とし、憲法によるその主要民族を「マケドニア人」、言語を「マケドニア語」としたことに関して、南に隣接するギリシャからの反発を受けた。 ギリシャにとって、その国名はギリシャ領マケドニアに対する領土的野心を疑わせるものであった。また新しいマケドニア共和国の憲法では、外国に対する内政干渉を否定する一方で、ヌイイ条約による住民交換を免れるために自らをギリシャ人と宣誓したギリシャ領のスラヴ人を念頭に置いたものと思われる、「周辺諸国に住むマケドニア人」への言及があった。さらに、ギリシャ系の文化を持つ古代マケドニア王国との直接の歴史的繋がりを持たないマケドニア共和国がヴェルギナの星を描いた国旗や「マケドニア」の呼称を使用することによって、ギリシャの歴史が隣国に奪われる感情を抱かせた。 ギリシャは、マケドニア共和国の呼称を、自国の領土や民族性、歴史に対する脅威と感じ、国名や憲法を改めるよう求めた。マケドニア共和国がこの要求に応じないと、ギリシャはマケドニア共和国の国家承認を拒み、また国際的な機関への加入を阻止する方針をとった。欧州共同体(EC)はギリシャの立場を支持し、欧州共同体としてマケドニア共和国を承認しないことを決定した。1992年1月15日、欧州共同体がクロアチア、スロベニアの独立を承認したとき、ブルガリアのみがこれらの国々とともにマケドニア共和国を国家承認した。ブルガリアはマケドニア共和国を承認する初めての国となったが、その後もギリシャの強硬な反発によって、マケドニア共和国は国際機関への参加は拒まれ、また同国に対する国家承認も少数に留まった。 国際連合によって提案された「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の呼称も、マケドニア共和国側は容易には受け入れがたいものであったが、「国名問題が解決されるまでの暫定的なものとして」この名称を使うことに同意し、1993年4月にようやく国連加盟が認められる。この後も国際的な機関への加盟や外国からの国家承認の進展は遅れた。1994年2月にはアメリカ合衆国が国家承認をするが、ギリシャはマケドニア共和国の国旗と憲法を改めるよう求め、マケドニアに対する経済制裁を実施した。 北のセルビア(当時はユーゴスラビア連邦共和国。コソボもセルビアの自治州であった)はユーゴスラビア紛争の当事国として国際的な経済制裁下に置かれていた。また西のアルバニアは欧州の最貧国であり、また体制転換に伴って経済混乱の中にあった。ブルガリアも冷戦終結にともなって共産主義体制を放棄したばかりで経済的には低迷を続けていた。元来ユーゴスラビアの市場への依存度の高かったマケドニア共和国の経済がこのような状況によって打撃を受け苦境に陥っている中、ギリシャの経済制裁はマケドニア経済に壊滅的な影響を与えた。ギリシャによる経済制裁は、マケドニア共和国が要求を受け入れて国旗と憲法を改める1996年まで続けられた。マケドニア共和国の国内総生産(GDP)は、独立から1996年まで一貫してマイナス成長であった。
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