マケドニア式のファランクス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 08:18 UTC 版)
「ファランクス」の記事における「マケドニア式のファランクス」の解説
古代マケドニア軍は、縦深が8列程度であった従来の密集方陣を改変し、6メートルの長槍(サリッサ)を持った歩兵による16列×16列の集団を1シンクタグマとして構成、このシンクタグマが横に並ぶことで方陣を形成した。マケドニア式ファランクスの歩兵は、イフィクラテスのファランクスの流れをくんだと言われ比較的軽装の鎧と、首から架けて腕につける小さな盾を装備していた。また、両手で長槍を支えることができるようになったのも効果が大きい(しかし逆に言えばサリッサはその長さと重量ゆえに両手でなければ扱えなかった)。 3年間テーバイで人質生活を送ったピリッポス2世は改良型ファランクスの戦い方を勘案しマケドニア式のファランクスを創始したと言われている。マケドニア式のファランクスが用いられたカイロネイアの戦いでは、本隊の歩兵右側に常備の近衛歩兵を置き、左側へ徴募による軽装歩兵を配置した。右翼には突撃に勝るヘタイロイ騎兵、左翼にはテッサリア人騎兵を配置し、前衛は弓が主装備の歩兵と軽騎兵が担当した。左翼で防御している間に、右翼での敵戦列破壊を行うマケドニア式のファランクスは、側面からの攻撃に弱い従来のファランクスを圧倒した。このように片翼で守り、もう片方の翼を打撃部隊とする戦術は「鉄床戦術」と呼ばれる。 このマケドニア式のファランクスを以って、ピリッポス2世はアテナイ、スパルタ、コリントス等々ギリシアの諸都市を打ち破り、彼の子アレクサンドロス3世はアケメネス朝ペルシアを滅ぼした。その後マケドニア式のファランクスはアレクサンドロスの後継者の座を争ったディアドコイに受け継がれた。ディアドコイ同士の戦いは必然的にマケドニア式ファランクス同士の戦いとなり、彼らは槍をさらに長くしたり、防御力を上げるために鎧を重装備にするなどして他より優位に立とうとした。 しかし、これらの改良は柔軟性や機動力の更なる低下へと繋がった。後にこの欠点や機動力を補う騎兵の不足などによってローマ軍団に敗れることとなる。 その後マケドニア式のファランクスは、ローマにおいても楯を隙間無く配置し防御力を高めたテストゥドに進化した。
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