アケメネス朝
(アケメネス朝ペルシア から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/18 23:31 UTC 版)
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- アケメネス朝
- 𐎧𐏁𐏂
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紀元前550年 - 紀元前330年
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(国旗) -
アケメネス朝の最大版図 -
公用語 古代ペルシア語、帝国アラム語、その他アッカド語、エラム語、古代ギリシア語の記録あり 首都 スーサ、ペルセポリス、パサルガダエ、エクバタナ
アケメネス朝(アケメネスちょう、古代ペルシア語: 𐎧𐏁𐏂 Xšaça 「王国」)は、古代オリエントを支配したイラン系帝国(紀元前550年 - 紀元前330年)。アケメネス朝ペルシアまたは単にペルシア帝国とも呼ばれる。アーリア人の一派ペルシア人によって建てられ、4王国(メディア、リュディア、新バビロニア、エジプト第26王朝)に分立していた古代オリエント世界を統一した。ダレイオス1世の時代には、エーゲ海沿岸からインダス川流域に及ぶ当時最大の帝国となったものの、紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征軍によって滅ぼされた。
名称
アケメネス朝の名称は、その祖アケメネス(古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 Haxāmaniš ハハーマニシュ、古代ギリシア語: Ἀχαιμένης Akhaiménēs アカイメネース)に由来する。海外の文献では、古代ペルシア語の発音に従ったハハーマニシュ朝(ハカーマニシュ朝とも)か、古代ギリシア語の発音に従ったアカイメネース朝(アカイメネス朝とも)のどちらかを用いている。アケメネス帝国、第1ペルシア帝国ともいう。単にペルシア王国、ペルシャ王国、またはペルシア帝国、ペルシャ帝国といった場合は、この国か、3世紀に興ったサーサーン朝を指すことが多い。
この王朝の王は称号として大王(xšāyaθiya vazraka)、諸王の王(xšāyaθiya xšāyaθiyānām)、諸邦の王(xšāyaθiya dahyūnām)などを称した。
歴史
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| パフラヴィー朝 | アフガニスタン王国 アフガニスタン共和国 アフガニスタン・イスラム国 |
タジク共和国 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| イラン・イスラム共和国 | アフガニスタン・イスラム首長国 | タジキスタン共和国 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀元前7世紀の後半、ペルシア人の長でアケメネスの息子テイスペス(チシュピシュ)は、アッシリアに圧倒され衰退しつつあったエラムの都市アンシャンを征服した。テイスペスの子孫はアンシャンを支配した一族とパールサ(ペルシア)に残った一族の2つの系統に分岐した。アッシリアの衰退と共にメディア王アステュアゲス(アルシュティワイガ?)は、バビロニアを除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアはメディアに服属していた。
紀元前550年に、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネの子)で、メディア人とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世(クールシュ)は反乱を起こし、メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼした。イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアのリュディア、エラム、メソポタミアの新バビロニアを滅ぼした。ヘロドトスの『歴史』によれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。しかし後年アルゲアス朝マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)のペルシア遠征の時、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。
紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世(カンブージヤ)はエジプト(第26王朝)を併合して古代オリエント世界を統一したものの、エチオピアへの侵略には失敗した。カンビュセスは弟のスメルディス(バルディヤ)を密かに殺し、カンビュセスの崩御後の数ヶ月間はメディア人の神官(マギ)のガウマータがスメルディスに成りすまし実権を握った。しかしガウマータは総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウシュ)をはじめとするペルシア人貴族たちの謀議によって打倒された。
ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた王による王政を選択した。最初に選ばれた王となったダレイオスは版図を北西インドからマケドニア・トラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。なお、このスメルディスの殺害に始まる政変はダレイオスによる王位簒奪の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある[要出典]。
ダレイオスとその息子クセルクセス1世(フシャヤールシャー)はギリシア征服を計画してペルシア戦争(紀元前492年 - 紀元前449年)を起こしたが、失敗した。紀元前490年にダレイオスが派遣した軍はマラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征はサラミスの海戦やプラタイアの戦いなどでの敗北を受け、失敗した。その後は紀元前5世紀中頃までペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの息子アルタクセルクセス1世(アルタフシャサ(ツァ)ー)は紀元前449年のカリアスの和約で講和した。
ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新たな首都ペルセポリスでの大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、ペロポネソス戦争(前431年 - 前404年)後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った(紀元前395年から紀元前387年のコリントス戦争がその典型である)。 その一方で、内政面では紀元前4世紀にあい続いた小アジアのサトラップ大反乱(紀元前372年 - 紀元前362年)に悩まされていた。
紀元前404年に、ダレイオス2世の崩御後、アルタクセルクセス2世と小キュロスの間で、王位継承争いが起こった。ペロポネソス戦争の退役ギリシア軍人を傭兵とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。クセノポンは、ギリシア敗残兵1万人の脱出紀行を『アナバシス』に残している。
宦官で大臣のバゴアスによりアルタクセルクセス3世とアルセス(アルタクセルクセス4世)が相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。ダレイオス3世はガウガメラの戦いでアレクサンドロス大王に敗れ、逃亡中の紀元前330年にバクトリア総督ベッソスに殺害された。これによりアケメネス朝は滅んだが、アレクサンドロスはダレイオス3世の娘(スタテイラ、パリュサティス)と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みた。なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の王たちもエジプトを征服した後には王(ファラオ)となっていた。
年表
- 紀元前550年:小王国アンシャンの第7代王キュロス2世がメディア王国を滅ぼし、アケメネス朝を建国する。
- 紀元前547年:キュロス2世がリュディアを滅ぼす。
- 紀元前539年:キュロス2世が新バビロニアを滅ぼす。
- 紀元前525年:カンビュセス2世がエジプトを併合し古代オリエント世界を統一する。
- 紀元前521年:ダレイオス1世がパンジャーブ・シンドを征服する。
- 紀元前520年:ダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手。
- 紀元前518年:ダレイオス1世がガンダーラを征服する。
- 紀元前499年:ギリシアとの戦争が始まる(イオニアの反乱)。
- 紀元前494年:イオニアの反乱を鎮圧。
- 紀元前490年:ペルシア軍がギリシアに遠征。
- マラトンの戦いでギリシアに敗れる。
- 紀元前480年:クセルクセス1世がギリシアに侵攻する。
- 紀元前479年:プラタイアの戦いでギリシア連合軍に敗れ、クセルクセス1世によるギリシア侵攻は失敗した。
- 紀元前333年:ダレイオス3世がイッソスの戦いでアレクサンドロス3世(大王)に敗れる。
- 紀元前331年:ダレイオス3世がガウガメラの戦いでアレクサンドロス3世に敗れる。
- 紀元前330年:ダレイオス3世は逃走中にバクトリア総督ベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡。
統治
概要
アケメネス朝は全国を36の行政区画に分け、各州ごとに行政官としてサトラップ(総督や太守などと訳される)を置いた。また、そのサトラップを監察する目的で、年に1度、中央政府から「王の耳」・「王の目」と呼ばれた監察官が派遣された。さらに「王の道」と呼ばれる国道を建設して駅伝を整備し、通貨制度を創設した。そして、フェニキア人とアラム人の商業を保護する政策も取った。アッシリアが武力で支配したのに対し、アケメネス朝は各地方の民族の文化に対して寛容な政策を取ったため、アッシリアと比べ長期間の支配を行えたと言われる[1]。
行政区画
- パールサ(ペルシア)
- カルマナー(カルマニア、ケルマーン)
- ウーウジャ(エラム)
- マーダ(メディア)
- アルミナ(アルメニア)
- パルサワ(パルティア)
- ワルカーナ(ヒュルカニア)
- ウワーラズミー(ホラズム)
- スパルダ(リュディア)
- カトパトゥカ(カッパドキア)
- パフラゴニア
- バービルシュ(バビロニア)
- アスラー(アッシリア)
- ムドラーヤ(エジプト、第1次と第2次がある)
- プターヤ(リビア)
- クシャーヤ(ヌビア)
- アラバーヤ(アラビア)
- ハラウワティシュ(アラコシア)
- ズランカ(ドランギアナ)
- マカ(ゲドロシア?)
- サタグシュ(サッタギュディア)
- ヒンドゥーシュ(インド、タキシラ)
- バーフトリシュ(バクトリア)
- マルグシュ(マルギアナ、メルブ)
- スグダ(ソグディアナ)
- ガンダーラ
- ハライワ(アレイア、ヘラート)
- ダハー(ダアイ)
- サカー・ティグラハウダー(マッサゲタイ)
- サカー・ハウマワルガー(アミュルギオイ)
文化
- 楔形文字を表音文字化した古代ペルシア楔形文字を発明した。
- 公用語は古代ペルシア語と、帝国アラム語(公用アラム語、標準アラム語とも)と呼ばれる標準化されたアラム語であった。
- ゾロアスター教またはそれに近い宗教が王族たちの間で信仰されていた。。
歴代王
従来、ダレイオス1世はアケメネス朝の傍系とされていたが、近年の研究により、王朝の創始者であるキュロス2世の直系から、アケメネス朝の第3(4)代とされるダレイオス1世が王位を簒奪したため、初代からの直系で連綿と続く王朝ではなかったことが研究者間の論争の中でほぼ明らかになっている。また、最後の王ダレイオス3世も、元々は従前のアケメネス朝とは繋がりのない地方の総督に過ぎなかったが、アケメネス朝が断絶したために擁立されたのだと言われる[2]。
また、そもそものアケメネス朝の系図自体がダレイオス1世の王位簒奪を正当化するための捏造だとする説もあり、すると傍系どころか王朝との間に全く血縁関係はない可能性も出てくる[注 1]。この説では、キュロス家の名前(チシュピシュ、クールシュ、カンブージヤ)とゾロアスター教またはそれに近い宗教の理念で意味づけられた即位名を名乗ったダレイオス家の名前(ダーラヤワウシュ、フシャヤールシャー、アルタフシャサ(ツァ)ー)の系統が大きく異なる説明もつくという。
王一覧
- アンシャン王の系統
- ダレイオス1世の先祖
- アリアラムネス
- アルサメス
- ダレイオス1世の系統
- ダレイオス1世(紀元前521年 - 紀元前486年)
- クセルクセス1世(紀元前486年 - 紀元前465年)
- アルタクセルクセス1世(紀元前464年 - 紀元前424年)
- クセルクセス2世(紀元前424年 - 紀元前423年)
- ソグディアノス(紀元前423年)
- ダレイオス2世(紀元前422年 - 紀元前404年)
- アルタクセルクセス2世(紀元前404年 - 紀元前343年)
- アルタクセルクセス3世(紀元前343年 - 紀元前338年)
- アルセス(アルタクセルクセス4世、紀元前338年 - 紀元前336年)
- ダレイオス3世(紀元前336年 - 紀元前330年)
系図
文献に伝わるアケメネス朝の系図[3][4]。ただし、ダレイオス1世とそれ以前の王との関係については上述の通り疑問視されている。
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アケメネス |
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アリアラムネス |
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カンビュセス2世 |
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スメルディス (バルディヤ) |
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アトッサ |
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ダレイオス1世 |
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娘 |
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ゴブリュアス |
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アメストリス |
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アルタゾストレ |
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マルドニオス |
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アルタクセルクセス1世 |
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クセルクセス2世 |
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ソグディアノス |
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ダレイオス2世 |
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パリュサティス |
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アルタクセルクセス2世 |
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キュロス |
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オスタネス |
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ダレイオス |
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アルタクセルクセス3世 |
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シシュガンビス |
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アルサメス |
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アルブパレス |
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アルセス |
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ダレイオス3世 |
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スタテイラ1世 |
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パリュサティス2世 |
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アレクサンドロス3世 マケドニア王 |
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スタテイラ2世 |
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ドリュペティス |
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ヘファイスティオン |
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娘 |
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ミトリダテス ペルシアの将軍 |
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脚注
注釈
- ^ 例えば、青木健『アーリア人』(講談社、2009年、p.117-118)では、アケメネス家のダレイオス1世がキュロス家の後継者を抑えてペルシア帝国の王に即位し、アケメネス家の系図の中にキュロス家の系図を嵌め込んだとしている。
出典
- ^ 帝国書院編集部編『明解世界史図説 エスカリエ 十一訂版』帝国書院、2019年、43ページ
- ^ ストラボン『ギリシア・ローマ世界地誌』飯尾都人訳、龍渓書舎
- ^ 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p.140
- ^ ジョン・E.・モービー 『オックスフォード 世界歴代王朝王名総覧』 東洋書林、1993年、p.44
参考文献
- 青木健『アーリア人』講談社選書メチエ、2009年、ISBN 978-4-06-258438-8
関連項目
アケメネス朝ペルシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)
「アフガニスタンの歴史」の記事における「アケメネス朝ペルシア」の解説
紀元前6世紀に、アケメネス朝ペルシアのキュロス大王が版図を東方のインダス川まで拡げ、その支配下にあった頃から、この地域が歴史の記録に現れ始める。ダレイオス1世によって、この地域に様々な州が設けられた。すなわち、アリア(ヘラート)、ドランギアナ(スィースターン)、バクトリア(アフガン・トルキスタン)、マルギアナ(メルブ)、ホラズミア(ヒヴァ)、ソグディアナ(トランスオクシアナ)、アラコシア(ガズニとカンダハール)、ガンダーラ(ペシャーワル谷)などであり、統治が強化された。紀元前332年、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王)の東征におけるガウガメラの戦いでダレイオス3世を破ったことにより、この支配体制は終わる。
※この「アケメネス朝ペルシア」の解説は、「アフガニスタンの歴史」の解説の一部です。
「アケメネス朝ペルシア」を含む「アフガニスタンの歴史」の記事については、「アフガニスタンの歴史」の概要を参照ください。
- アケメネス朝ペルシアのページへのリンク
