アケメネス朝のエジプト征服
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アケメネス朝のエジプト征服
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「エジプト第26王朝」の記事における「アケメネス朝のエジプト征服」の解説
イアフメス2世の治世末期頃からオリエント世界の政治情勢は激変を迎えることになる。それはアケメネス朝の出現であった。アケメネス朝はペルシア帝国とも呼ばれ、かつてはメディアに従属していた小王国であったが、キュロス2世の時代にメディアから離反し、逆にこれを併呑した(紀元前550年)。 この事態に対し、イアフメス2世は当時の新バビロニア王ナボニドゥス、リュディア王クロイソスらとともに同盟を結んで対応した。しかし、数年のうちに新バビロニアもリュディアもキュロス2世によって滅ぼされてしまい、エジプトへの侵攻も時間の問題であった。キュロス2世がカスピ海地方での戦いに忙殺され、マッサゲタイ人との戦いによって戦死した(紀元前530年)ために、エジプトへのアケメネス朝の進軍はかなり後のことになったが、キュロス2世の後継者カンビュセス2世は紀元前526年末、もしくは翌年の初頭にはエジプト遠征を開始した。 イアフメス2世はこれに対抗するために戦争準備に奔走し、サモスの僭主ポリュクラテスとの同盟が結ばれた。しかしポリュクラテスは敵が接近するとアケメネス朝側に寝返り、さらにイアフメス2世自身も戦いの直前(恐らく紀元前526年末)に歿し、息子のプサメティコス3世(英語版)(プサムテク3世)が王位を引き継いだ。翌年、プサメティコス3世はやはりイオニア系ギリシア人とカリア人の傭兵を主力とする部隊を率いてナイル川のペルシウム河口に布陣、ペルシア軍と相対したが完敗を喫しメンフィスへと後退した(ペルシウムの戦い(英語版))。 この時点でプサメティコス3世の下にカンビュセス2世から降伏を勧告する使者が送られてきたが、プサメティコス3世は使者を殺害して篭城した。そしてメンフィスで最後の戦いが行われ、エジプトの敗北に終わった。プサメティコス3世はカンビュセス2世の下に引き出され詰問と侮辱を受けたものの、その受け答えの立派さに感銘を受けたカンビュセス2世はプサメティコス3世を処刑せずにおくことにしたのであった。 しかしプサメティコス3世は到底従属王の地位に満足せず、叛乱を企画したために処刑され、第26王朝は終焉を迎えた。
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