第26王朝
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アッシュルバニパルは自国が危うくなったため、ネコ1世の後継者、プサメティク1世にエジプトの管理を任せて撤退する。ここより第26王朝に区分される。しかし、プサメティク1世はアッシリアからの独立を図る。彼は、娘を在任中のアメンの聖妻の養女にし、上エジプトの実権を握っていたテーベ市長に娘を嫁がせるなどして、やはり政治面より王権を確実にしたのである。 次代ネコ2世の時代になると、エジプトは一時国力を盛り返す。前609年にはシリア・アッシリアに遠征し、旧約聖書列王記下 23:29 にあるようにメギドの戦いにおいてヨシア王を殺し、ユダ王国を支配し朝貢を課している。しかし、前605年にはバビロニアのネブカドネザル2世がエジプトに臣従していたユダ王国を攻略し(第一回バビロン捕囚)(列王記下 24:12, 歴代誌 36:6-7)、エジプト軍も打ち破ってしまう(エレミヤ書 46:2)。これによりエジプトのシリア・パレスティナ地方の支配はたったの4年で終わってしまった。ネブカドネザルはこれに乗じてエジプトを攻めようとしたが、辛くも防衛したようである。 これを継いだプサメティク2世も娘をアメンの聖妻の養女にするなど、アメン神殿との関係を強化することを怠らなかった。次のウアフイブラー(アプリエス)王は将軍イアフメス2世(アマシス)にクーデターを起こされ、幽閉後処刑された。あとを継いだプサメティク3世も攻め込んできたアケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世を防衛することができずエジプトを征服され、これまた処刑されて第26王朝は終わることとなる。
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第26王朝
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サイス王朝としても知られる第26王朝は、紀元前672年から紀元前525年まで続いた。ナイル川から紅海への運河建設が始まった。
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