シリアとリビュアでの敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 21:52 UTC 版)
「エジプト第26王朝」の記事における「シリアとリビュアでの敗北」の解説
アッシリア滅亡後のオリエント世界で勢威を振るったのはエジプト、新バビロニア、メディア、そしてアナトリア半島のリュディアという四つの大国であった。エジプトにとって他の三ヵ国のうち最も憂慮すべき相手は国境を隣接する新バビロニアであり、ネコ2世が敗北した後もシリアを巡る戦いが繰り返されることになる。 ネコ2世の死後、紀元前595年に王位を継いだプサメティコス2世(英語版)(プサムテク2世)の治世は短く、ヘロドトスの伝えるヌビア遠征 以外の業績は不明であるが、彼は新バビロニアとの戦いは避けていたと考えられる。 しかし次のアプリエス(英語版)(ウアフイブラー)の時代には再びシリア地方で新バビロニアと衝突した。ユダ王国は新バビロニアに制圧された後も、エジプトとの緩衝国の役割を期待され従属王国として存続していた。しかしこの従属に反対するユダ王国の主戦派が主導権を握り、紀元前588年新バビロニアからの離反を目指す動きを見せると、アプリエスはこれに対する支援を約した。ネブカドネザル2世はすばやくユダ王国への出兵に取り掛かり、紀元前587年には首都エルサレムを包囲した。アプリエスは直ちに救援軍を派遣し、エルサレム近郊で新バビロニア軍と戦ったが敗れ去り、エルサレムも陥落してユダ王国は完全に滅亡した。 シリアで敗北したアプリエスは、その後も軍事面での失敗を続け求心力を低下させていく。シリアでの敗北の後、リビュアの植民市キュレネにギリシア人が大挙移住すると言う事件が起きた。このために周辺のリビュア人と軋轢が強まり、リビュア人の王アディクランはアプリエスに支援を求めてきた。アプリエスはキュレネに向け大軍を派遣したが、テステの泉付近の戦いで壊滅的な損害を受けて退却に追い込まれた。
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