シリアにおけるベドウィンの同盟の成立
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「サーリフ・ブン・ミルダース」の記事における「シリアにおけるベドウィンの同盟の成立」の解説
アズィーズの後任者たちはサーリフによる挑戦を受け、アレッポでは混乱が広がった。1023年にサーリフはファーティマ朝による直接統治に反発していたトランスヨルダン(英語版)(ヨルダン川東岸地域)のタイイ族(英語版)とシリア中部のカルブ族(英語版)の間で結ばれていた軍事同盟に加盟した。同時代の歴史家であるヤフヤー・アル=アンターキー(英語版)によれば、この時の同盟は1021年頃に両部族の間で結ばれていた以前の協定を更新したものであった。タイイ族とカルブ族は1021年以来ファーティマ朝に反抗していたが、1021年のハーキムの失踪を受けて権力を握った新しいファーティマ朝のカリフであるザーヒル(英語版)(在位:1021年 - 1036年)と最終的に和解した。しかしながら、ファーティマ朝のパレスチナ総督であるアヌーシュタキーン・アッ=ディズバリー(英語版)とタイイ族が対立したために1023年までに和解は破綻した。この対立はタイイ族の族長のハッサーン・ブン・ムファッリジュとカルブ族の族長のスィナーン・ブン・ウライヤーン、そしてサーリフの三者によるアレッポ郊外での会談へとつながり、これらの三者によって同盟が更新された。 協定の条項によれば、サーリフが率いるキラーブ族がアレッポとシリア北部、ラムラを拠点とするジャッラーフ家(英語版)が率いるタイイ族がパレスチナ、そしてダマスクスを拠点にカルブ族がシリア中部を支配する形でそれぞれのベドウィンの部族が取り仕切る三つの国に分割されることになっていた。シリアで最大の三つの部族の力が結集したことで、この部族同盟はファーティマ朝にとって強力な対立勢力となった。これだけの規模と特徴を持ったベドウィンによる同盟は7世紀以来成立したことがなく、同盟の結成に当たって伝統的な部族同盟間の対立であるカイス族とヤマン族の反目(英語版)は考慮されなかった。タイイ族とカルブ族はヤマン系の部族であり、キラーブ族はカイス系の部族であった。加えてこの同盟の成立は当時のシリアの住民を驚かせた。シリアの住民は砂漠の周辺での遊牧生活よりも都市において王権を求めるベドウィンの族長の姿に慣れていなかった。ザッカールは、表向きにはハッサーンが同盟とファーティマ朝の間の意思疎通を取り仕切っていたものの、「とりわけ軍事的な側面ではサーリフが同盟の中で抜きん出た存在であった」と指摘している。 1023年にサーリフとキラーブ族の軍隊は南方へ向かい、タイイ族がパレスチナの内陸部からアヌーシュタキーン配下のファーティマ朝軍を撤退させる手助けをした。その後、サーリフはダマスクスに対するカルブ族の包囲攻撃を支援した。ザッカールによれば、パレスチナとジュンド・ディマシュク(英語版)(ダマスクスの軍事区)におけるタイイ族とカルブ族の反乱は、特にファーティマ朝のアレッポに対する支配力が弱まっていたために、サーリフがアレッポへ拠点を移すことへの「刺激を与えた」。サーリフが南方で同盟者とともに戦っている間、自身のカーティブ(書記官)であるスライマーン・ブン・タウクがアレッポ南西の農村地帯に位置するマアッラト・ミスリーン(英語版)をファーティマ朝の総督から奪った。11月にサーリフはアレッポの守備隊がすぐに降伏するであろうと考えアレッポへ戻ったが、アレッポは降伏しなかった。これを受けてサーリフはアレッポから撤退するとともに部族の戦士とその他の地元のベドウィンを動員した。
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