シリアにおけるバアス党の指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/12 06:27 UTC 版)
「サラーフ・ジャディード」の記事における「シリアにおけるバアス党の指導者」の解説
ジャディードは民衆の前には現れなかった一方、第二書記として政権や軍の主要人物と関係を築いた。党議長で大統領・首相を務めたヌーレッディーン・アル=アターシー、外務大臣イブラヒム・マホウス、国防大臣ハーフィズ・アル=アサド、治安責任者カリーム・アル=ジュンディなどと関係を築いた。アラウィー派が多く、数名は軍事関係者であった。また、全員がバアス党左派であった。 ジャディードの事実上の統治下において、シリアは社会主義陣営と親交を結び、イスラエルおよび「反動的」なアラブ諸国(特にサウジアラビア)に対して強硬路線をとった。アラブ諸国との軍事同盟よりもシオニストへの「人民戦争」運動を重視した。国内政策においては、シリア共産党員を閣僚にして社会主義的な改革を急激に進めようとした為、社会不安や経済的混乱をもたらしてのちにアサドら穏健派のクーデターの原因となった。一方で、反体制派は厳しく弾圧された。バアス党が議会から立法権を奪い、他の政党は禁止された。1967年に第三次中東戦争の敗北によってイスラエルにゴラン高原を占領されて以降は、民衆の支持も失っていった。 第三次中東戦争後、ジャディード派と、社会主義政策や国際関係についてより穏健な姿勢を取ることを求めるグループとの間で緊張が高まった。後者は、ジャディードの「冒険主義」に反対していた国防大臣のアサドのもとに結集した。彼らは、恒久憲法の制定による国内情勢の正常化、経済の自由化、非バアス党員との関係修復、ヨルダンやサウジアラビアなどの保守的なアラブ諸国との関係改善などを求めた。ジャディードはバアス党の文民組織に忠誠を保っていたが、アサドは徐々に軍への支配を確立した。1969年、アサドが複数のジャディード支持者を追放し、これ以降、ジャディードはシリア国内での影響力を失っていった。
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