シリアによる実効支配
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「パクス・シリアーナ」の記事における「シリアによる実効支配」の解説
詳細は「シリアによるレバノン占領(英語版)」を参照 その後レバノンでは、1989年のターイフ合意(英語版)にて当事者間での停戦に向けた動きが進められるとともに、治安維持やイスラエルに対する牽制を名目とするシリア軍の2年間に及ぶ駐留、そしてその後に駐留延長を再協議する旨が定められた。しかし、当時のレバノン軍司令官ミシェル・アウンはこのシリア軍支配に反発し、解放戦争(英語版)を引き起こして最後の抗戦を試みた。1年半にわたる戦闘後、彼の軍がシリア側に鎮圧されたことで内戦は名実ともに終結した。 レバノン独立から内戦勃発までの「第1共和制」に対し、パクス・シリアーナ以降の政治体制は「第2共和制」と呼称される。 同じころ、シリアの支援国であったソ連がペレストロイカを実行していたことから西側陣営への接近を余儀なくされていたシリアは、イラクによるクウェート侵攻の後、アメリカに対しイラク攻撃を支援する約束を取り付けた。その見返りとしてレバノン駐留を黙認されたシリアはその後も引き続いて多くの部隊展開が可能となり、解放戦争が終わった10月13日にレバノンに進軍し、イスラエルが占領していた南部以外をほぼ手中におさめることができた。また、テロ組織として名高いヒズボラも、シリア側によって南部を除く地域にて武装解除と統制が進められたことや、ルーホッラー・ホメイニーの死去と支援国であったイランの穏健化による軍事・財政支援の停止、そしてイラン側がシリアによるヒズボラの支配を認めたことなどから、レバノン国内の治安安定化が進展していった。政党として政治参加したヒズボラは反イスラエル路線を示すことで一定の支持を得ていった一方、シリア側は選挙への介入によってヒズボラの過度な台頭を抑制した。 シリア統治期におけるレバノン政府の意思決定の多くは、シリアの大統領であるハーフィズ・アル=アサド(2000年からはバッシャール・アル=アサド)とその指示を受けたシリア軍によるものであった。シリア側は、レバノン政治において擁立した多数の政党や宗派を越えた調整役を果たした一方、レバノンの政治家らにもシリアとの関係進展を目指す動きが見られ、そうした政党が勢力を伸ばすようになった。 このようにして、ハフィーズ・アサド政権下では概して安定しながら推移したレバノン情勢だったが、2000年にバッシャール・アサド政権が発足すると彼の意図によりレバノンの政党間で大きな格差が生じ、2004年にはレバノンの大統領エミール・ラフードの任期延長をめぐってシリア支配に対するレバノン国内の不満が噴出した。アサド大統領の「代理人」と呼ばれるほどの親シリア派であったラフードの続投が決まると、首相のラフィーク・ハリーリーはこの人事に反発し、野党政治家らも反シリアデモを一斉に開始した。さらにはアメリカやフランス、サウジアラビアなども国際連合安全保障理事会決議1559号(英語版)を通じて公正な大統領選挙や民兵組織の完全武装解除を求め、シリアの内政干渉を咎めるようになった。 レバノン国内の緊張が増すなかの2005年2月14日、ついに元首相のハリーリーが暗殺され、これをシリアまたは親シリア派の犯行とみなした諸外国やレバノン国民がシリアを強く批難した。「杉の革命」と呼ばれるデモの発生を受けたアサド政権はついにシリア軍の撤兵を宣言し、4月26日までに撤収したことで15年にわたるこの時代は幕を閉じた。その後のレバノンではヒズボラが台頭し始め、2006年のイスラエルによる侵攻や親シリア派と反シリア派の対立激化により、再び内戦状態に陥ってしまった。
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