シリアの反応
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2005年3月2日、アサド大統領は、シリア軍が「2から3ヶ月の間には、レバノンから撤退するだろう」と声明を発表した。この声明に対して、ワリード・ジュンブラートは、以下のように反対意見を発表した。「すばらしいジェスチャーだ。しかし、2から3ヶ月という期間は極めて、あいまいなものである。私たちは明確なタイムスケジュールを要求する。 3月3日、ドイツと冷戦時代の盟友であったロシアがシリアに対して国連決議1559の遵守をシリアに要求した。ゲルハルト・シュレーダー首相は、「シリア軍が速やかにレバノンから撤退することを求めている国連決議が達成されることによってのみ、レバノン自身の主権の回復と発展が可能となるだろう」と声明を発表した。 セルゲイ・ラブロフ外相の声明は、「シリアはレバノンから撤退をすべきである、しかし、私たち全員が、この撤退がレバノンが何とか保っているバランスを崩すようなことがないように保証すべきである」というものであった。 3月5日、アサド大統領がテレビ演説では、シリアは、東レバノンのベッカー渓谷から軍隊を引き上げ、シリア・レバノン国境まで移動させると発表したが、具体的なタイムスケジュールの発表はなかった。 最終的には、4月9日から10日にかけての週末、レバノン内戦が勃発してから30年経過したその日に、レバノンに駐留していた最後のシリア軍がレバノンから撤退を完了した。
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