シリアの権力政治における政治活動(1954–1963)
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シーシャクリー軍事政権の転覆後、5年ぶりの民主的選挙が実施された。ビータールはダマスカスの選挙区でライバルのシリア社会民族党の候補者を破り、議員となった。1956年に外務大臣に任命され、1958年まで務めた。1958年にエジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領がシリアとの統合を目指してアラブ連合共和国(UAR)を結成した際には、統合の推進を担当する大臣になった。当初統合を支持した多くのシリアの政治家と同様にエジプト中心の統合政策に幻滅し、翌年には統合担当の大臣を辞職した。1961年に右派のクーデターでエジプトとのアラブ連合共和国の解消が決まった際には、連合共和国からの離脱宣言に署名した有力政治家16人のうちのひとりとなった。バアス党内ではホーラーニーが離脱派として知られていたが、当時多くの党員がビータールの署名を非難した。ビータールは署名を撤回したが、党内の離脱反対派はナセル主義者となっていった。
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