シリアへの編入と復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/07 23:35 UTC 版)
第一次世界大戦終結時、イギリス軍の侵攻はアンタキヤまで達せず、オスマン帝国のもとに保持されていたが、アラブ系住民による独立運動もあってトルコ革命によるトルコ軍の奪還は及ばず、アンカラのトルコ大国民議会は1921年にフランスと条約を結んでシリアとともにアンタキヤの領有を放棄した。 フランスはアンタキヤを含むシリア北西沿岸部を委任統治領シリアに編入し、アレクサンドレッタ県を置いたが、その人口の過半数がトルコ系住民であったことから、トルコではこの地方のトルコ編入を求める声が大きく、フランスとトルコの間の外交問題となった。 やがてトルコとアレクサンドレッタ県のトルコ系住民は、アレクサンドレッタ県とその中心都市であるアンタキヤを、当時のトルコの歴史観において原トルコ人の国家とみなされていたヒッタイトにちなんでハタイと呼称し始め、トルコ系住民による政治組織ハタイ人民党が結成されて、トルコへの編入運動を行った。ハタイのトルコ系住民はトルコ共和国の近代化改革に追随してトルコ民族意識を涵養し、トルコの文字改革を取り入れてトルコ語をラテン文字で書くようになった。 1936年、フランスはシリアを近い将来に独立させることを承認したが、アレクサンドレッタ県はトルコ政府とトルコ系住民の反対運動にもかかわらず、フランス委任統治領シリアの北部に予定されるシリア共和国に編入されることが決まったため、トルコは国際連盟にこの問題を提訴した。連盟はハタイ自治州を設立し、トルコ語を公用語として自治政治を行う代わりに財政・外交をシリアに管理させる仲裁案を提示、1938年に独立を前に最初の選挙を行うことを決定したが、この情勢下であくまでトルコへの編入を求める推進派と反対派の間で流血事件が続発し、帰属問題は混乱した。 1938年8月に実施されたハタイ議会選挙の結果、議会ではトルコ系住民の議員が過半数を占めた。トルコ系議員は独立ハタイの樹立を宣言し、翌1939年7月、トルコへの併合を決議した。結局、第二次世界大戦を目前にしたフランスは、トルコがドイツ・イタリアの枢軸陣営に接近することを恐れて譲歩し、ハタイのトルコ帰属を認めた。 2012年にハタイ県全域が大都市自治体に指定されることにより、アンタキヤはハタイ大都市自治体所属の区となり、一部の区域は新設のデフネ区(Defne)に分割された。
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