シリアへの勢力拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 03:29 UTC 版)
「アフマド・ブン・トゥールーン」の記事における「シリアへの勢力拡大」の解説
870年代初頭にアッバース朝政府で重大な変化が起こり、アッバース朝の王族のムワッファク(英語版)が自身の兄弟であるカリフのムウタミド(在位:870年 - 892年)を権力の座から遠ざけ、帝国の事実上の統治者として台頭した。形式上はムワッファクがカリフの統治する領域の東半分を支配し、ムウタミドの息子で後継者に指名されていたムファッワド(英語版)がトルコ人の将軍のムーサー・ブン・ブガー(英語版)の支援を受けて西半分を支配していたが、実際にはムワッファクが実権を掌握していた。しかしながら、ムワッファクは東方のサッファール朝の台頭や本拠地のイラクにおけるザンジュの乱の勃発といったアッバース朝政府に対するより直接的な脅威への対処に加え、トルコ人軍団の牽制と政府内部の緊張状態を制御することで手一杯であった。この状況はエジプトで自らの地位を固めるために必要としていた余裕をイブン・トゥールーンに与えることになった。イブン・トゥールーンはザンジュとの紛争には関与せず、ムファッワドを宗主として認めることも拒否した。同様にムファッワドもイブン・トゥールーンの地位を認めなかった。 875年か876年には中央政府への多額の歳入の送金をめぐってイブン・トゥールーンとムワッファクの間で公然とした対立が起きた。イブン・トゥールーンは自らの立場を維持するためにカリフとその極めて強力な兄弟の間の対立を利用し、ムワッファクではなくムウタミドに歳入をより多く分配した。送金額はカリフに対しては2,200,000ディナールであり、ムワッファクに対しては1,200,000ディナールしか送らなかった。ザンジュとの戦いの最中にあったムワッファクは地方の税収の大部分を自分が受け取るべきものと考えていたために、この出来事とイブン・トゥールーンとカリフの間の暗黙の企みに怒りを見せた。ムワッファクはイブン・トゥールーンの後任となる志願者を募ったが、バグダードの役人たちは全てイブン・トゥールーンに買収されており、後任になろうとする者はいなかった。ムワッファクはイブン・トゥールーンに辞任を求める書簡を送ったが、エジプトの支配者は当然のようにこれを拒否した。そして両者は戦争に備え始めた。イブン・トゥールーンは艦隊を建造し、アレクサンドリアを含む港と領土の境界地帯の防備を強化するとともにフスタートを守るためにローダ島に新たな要塞を築いた。ムワッファクはムーサー・ブン・ブガーをエジプト総督に指名し、軍隊とともにムーサーをシリアへ派遣した。しかし、部隊に対する俸給や物資の不足に加えてイブン・トゥールーンの軍隊に対する恐怖心が生まれ、これらの問題が重なったことでムーサーはラッカから先へ進軍することができなかった。結局、10か月にわたる無為無策と部隊の反乱の末にムーサーはイラクに戻った。イブン・トゥールーンはムワッファクを支持せずムウタミドを支持する公的な意思表示として、878年に「信徒の長の従者」(mawlā amīr al-muʾminīn)の肩書きを称するようになった。 イブン・トゥールーンはすぐに対立の主導権を握った。若い頃にタルスースでビザンツ帝国との国境地帯の紛争に従軍していたイブン・トゥールーンは、すぐさまキリキアの国境地帯(スグール(英語版))の軍事指揮権を与えるように要求した。当初ムワッファクはこの要求を拒否したが、ビザンツ帝国の圧力を退けるイスラーム勢力側の能力が低下しつつあったため、ムウタミドがムワッファクを説得し、877年か878年にイブン・トゥールーンがシリア全域とキリキアの国境地帯の責任を担うことになった。イブン・トゥールーンは自らシリアへ進軍した。そしてこの頃に死去したアマージュール・アッ=トゥルキーの息子の臣従を受け、この息子をラムラで総督に任命した。さらにダマスクス、ホムス、ハマー、およびアレッポの占領を進めていった。ダマスクスでイブン・トゥールーンはエジプトを追われて以来アマージュールの下でパレスチナとダマスクスの税務長官を務めていたかつての政敵であるイブン・アル=ムダッビルと出会った。イブン・アル=ムダッビルは600,000ディナールの罰金を科された上に投獄され、883年か884年に死去した。しかし、残りの地方行政の運営においてはアマージュールの下で仕えていた人々のほとんどを残した。 シリアではアレッポ総督のスィーマー・アッ=タウィールだけがイブン・トゥールーンに抵抗したものの、結局アンティオキアへ逃亡した。イブン・トゥールーンはアンティオキアを包囲したが、スィーマーは現地の女性に殺害されたと伝えられている。その後はタルスースに向かい、ビザンツ帝国に対する軍事作戦の準備を始めた。しかしながら、非常に多くの兵士が駐留したために物価が急騰し、タルスースの人々は敵意を剥き出しにして退去するか軍隊の規模を減らすように要求した。このような状況の中、エジプトから自分の代理として残してきた息子のアル=アッバースが側近の影響によってイブン・トゥールーンの地位を奪おうと画策しているという知らせが届いた。イブン・トゥールーンは急遽タルスースから撤退したが、エジプトの情勢に関するより多くの情報が入り始めるとアル=アッバースが現実的な脅威にはなっていないことが明らかとなり、シリアで時間をかけて自身の支配権を固める決心をした。そしてスィーマーが行っていた不正を正し、自身のグラームであるルウルウが率いる軍隊をアレッポとハッラーンに駐留させ、キラーブ族(英語版)とその指導者であるイブン・アル=アッバースの協力を取り付け、さらには反乱を起こしたムーサー・ブン・アターミシュを捕らえた。シリアの占領後のある時期にイブン・トゥールーンはアッカーの再要塞化を命じたが、この任務は10世紀の地理学者であるアル=ムカッダスィー(英語版)の祖父にあたるアブー・バクル・アル=バンナーが担い、アル=ムカッダスィーはその様子を詳細に記録している。 イブン・トゥールーンは879年4月になってようやくエジプトに戻った。この時アル=アッバースは支持者とともに西方へ逃亡し、バルカからイフリーキヤを占領しようとした。しかし(恐らく880年から881年にかけての冬に)イフリーキヤ人に敗れ、東方のアレクサンドリアへ撤退したが、結局そこでイブン・トゥールーンの軍隊と対決した末に捕らえられた。イブン・トゥールーンはアル=アッバースをラバに乗せて公然と引き回した後、息子に反乱へ駆り立てた共謀者を処刑するか手足を切断するように命じた。その一方で内心では息子がこのような不名誉な行為を拒絶することを望んでいたと伝えられているが、アル=アッバースはこの命令に同意した。イブン・トゥールーンは涙ながらにアル=アッバースを鞭で打たせて投獄した。そして次男のフマーラワイフを後継者に指名した。
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