シリアのアンティオキアの歴史とは? わかりやすく解説

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シリアのアンティオキアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 14:33 UTC 版)

アンティオキア」の記事における「シリアのアンティオキアの歴史」の解説

セレウコス朝シリアセレウコス1世ニカノルが、父アンティオコス記念して建てた16都市のうちの1つイプソスの戦い勝利した後の紀元前300年開基された。アンティオキアセレウコス朝首都となり、最も栄えたヘレニズム都市となったセレウコス朝ローマ滅ぼされた後も、ローマアレクサンドリアに次ぐローマ帝国第三都市として栄えた初期キリスト教時代には、パウロ異邦人布教拠点となった都市であり、キリスト教ギリシア文化の影響受けて発展した地でもある。新約聖書使徒行伝11章26によればキリスト者クリスチャン)という呼称はこの地で初め用いられとされる。また現代の研究によれば新約聖書『マタイによる福音書』成立地として有力視される。 後にキリスト教ローマ帝国公認されるようになって以降は、アンティオキアローマコンスタンティノポリスアレクサンドリアエルサレムと並ぶ五大総主教座一つとなり、シリア地域政治・経済宗教・文化中心地として栄えた。現在も東方教会にはアンティオキア正教会アンティオキア総主教庁の名称を持つ教会複数あるが、実際活動シリアダマスコスや他の都市移されている。 526年5月29日大地震壊滅的な打撃を受け25-30万人にも上る犠牲者出したその後再建はなされたもののかつての偉容は甦らず、サーサーン朝ペルシアに度々攻撃されるなどしたため衰退はじまった7世紀東ローマ帝国イスラム帝国敗れてシリア喪失した後には、アンティオキア周辺は両帝国争奪前線となり荒廃しアンティオキアは北シリア地方都市となった969年東ローマ帝国奪還するが、1084年に再びムスリム王朝セルジューク朝征服された。1096年派遣され第1回十字軍半年以上にわたったアンティオキア攻囲戦アンティオキア征服しこの地にアンティオキア公国建設するが、1268年マムルーク朝奪われた。 1516年オスマン帝国マムルーク朝滅ぼしてこの町を征服すると、オスマン帝国アレッポ州の一地方都市となった第一次世界大戦後フランス委任統治領シリア編入されたが、トルコ系住民シリアからの分離運動起こし1939年トルコ共和国編入された。 現在はトルコハタイ県県庁所在地であり、アンタキヤ呼ばれる

※この「シリアのアンティオキアの歴史」の解説は、「アンティオキア」の解説の一部です。
「シリアのアンティオキアの歴史」を含む「アンティオキア」の記事については、「アンティオキア」の概要を参照ください。

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