ターイフ合意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:33 UTC 版)
この一方で、和平を求める動きも見られ、サウジアラビアの仲介で内戦を終結し国家再建を目指すターイフ合意(英語版)(名称はサウジアラビアの都市名に因む)が国会議員団によって1989年に採択される。当初この合意への調印に各派民兵組織指導者とシリアは消極的であったが、サウジアラビアの説得によりシリアは賛成に周り、民兵組織もヒズボラ、親イスラエルの南レバノン軍、アウン派などを除いて、多くの組織が承諾。その後、ヒズボラは消極的賛成にまわり、南レバノン軍は合意そのものを黙殺。そして、アウン派はこの合意への同意を頑なに拒否した。 1988年、アミーン・ジェマイエル大統領が任期満了となったが、元来イスラム教のポストである首相にマロン派であるアウンを任命していた。この直後に、アミーンはレバノンから亡命同然にアメリカへ移住、一時的に大統領が空位となる異例の事態となった。シリアは、反シリア派であるアウンの首相就任を拒絶し、伝統的に首相を輩出しているスンナ派からサリーム・フッス(英語版)を首相に就任させた。そして、シリア支配地域であるベッカー高原のラヤクにある事実上の休眠状態に陥っていた空軍基地に国会議員を召集させ、名家出身の政治家であるルネ・ムアワド(英語版)を大統領に就任させた。 この結果、反シリア派のアウン「首相」と、ターイフ合意を旗印としたムアワド大統領の二重権力が存在する事態となった。だが、後者は影響力が少なく、ベイルート東南のバーブダにある大統領府はアウン派が占有しており、ムアワド側はベッカー高原を出る事すらままならず、遂には1989年11月22日に車爆弾によるテロで暗殺された。後継には海軍のエリアス・ハラウィ(英語版)が就任し、シリアのバックアップの下、アウン派と対峙していくことになっていく。 アウン派は、キリスト教徒に徹底抗戦を呼びかけた。しかし、イラクはクウェート占領を経て湾岸戦争に突入して支援が途絶、またイラクから支援を受けていた事から、アメリカなどはムアワド及びハラウィの政権に正当性を認め、外国からのアウン派への支援は絶たれた。さらにLFを含めた民兵組織の解体と中央集権体制の樹立を目論むアウンと、LF主導のマロン派国家樹立を目指すジャアジャアは対立し、連合軍は決裂した。この結果、元来戦闘の少なかった東ベイルートやジュニエにおいても、マロン派同士の戦闘が発生した。また、イラクがアウン派に対して、マロン派支配地域からシリアの首都ダマスカスを射程圏内に入れるソ連製短距離地対地ロケット・FROGを供与したという噂も流れ、緊張状態が加速した(現実には供与されなかった)。 アメリカは、湾岸戦争へのシリア出兵の見返りとしてシリアに内戦終結を一任する事となった。アメリカの後ろ盾を得たシリアは、イラクの影響力排除も目論んで最も大規模な軍事作戦を行う事となった。
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