シリアでの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:34 UTC 版)
「エジプト第25王朝」の記事における「シリアでの戦い」の解説
シャバカの14年の治世の後、ピアンキの息子であるシャバタカ(英語版)が王位を継いだ。シャバタカの治世に入るとアッシリアの拡大が重大な問題となっていた。シリア地方は既にアッシリア王サルゴン2世によって、ガザに至るまで全域がアッシリアの支配下に置かれていた。しかしサルゴン2世の死(紀元前705年)に乗じて、同じくアッシリアの支配下に置かれていたバビロニアでメロダク・バルアダン2世が反乱を起こし、シリアでもこれと同盟してユダ王ヒゼキヤがアッシリアに対して反乱を起こした。ヒゼキヤは明らかにシリア地方における反乱を主導した人物であり、シドンとアシュケロンも味方に引き込みアッシリアからの独立を図った。後にエクロンもこの反乱に加わったと言う。 サルゴン2世の後アッシリア王位を継承したセンナケリブは、メロダク・バルアダン2世をキシュ平野の戦い(紀元前702年)で撃破し、バビロニアを再び支配下に置くとシリア地方の反乱平定へと向かってきた。この事態に対しユダ王ヒゼキヤはシャバタカの下へ支援を要請してきたのであった。シャバタカはアッシリアの脅威を除去する好機と見たか、或いはパレスチナへの覇権を確立する意図があったかはわからないが、この要請に応えパレスチナへの軍事遠征に踏み切った。遠征軍司令官には王弟タハルカ(英語版)が任命され、軍勢を率いてシリアへと向かった。 アッシリア軍はシリアをフェニキア海岸沿いに南下し、アシュケロンを占領した後、アルタク(旧約聖書にあるエルテケ)を包囲した。シャバタカの治世第2年(紀元前701年)、エジプト軍は包囲されたアルタクの救援に向かい、アルタク平野でアッシリア軍と激突した。エジプト軍はこの戦いに敗れてパレスチナから後退した。ユダ王ヒゼキヤは領内の都市が悉くアッシリア軍に占領され、エルサレムに封じ込められるに及んでアッシリアに降伏し、シリア地方全域が再びアッシリアの支配下に置かれた。しかし、センナケリブは十分な貢納を受け取らないうちに何らかの理由で本国に引き上げ、その後バビロニアで再び発生した反乱の鎮圧に当たることになる。
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