アケメネス朝からグレコ・バクトリア王国
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「中央アジアの美術」の記事における「アケメネス朝からグレコ・バクトリア王国」の解説
アム川流域、同川とヒンドゥークシュ山脈の間に広がる、気候温和で肥沃な土地は、古くはバクトリアと呼ばれ、イスラム化以後はトハリスタンと呼ばれた。7世紀にここを訪れた玄奘はトカラ国(覩貨邏国)と記している。紀元前6世紀の半ば頃から、バクトリアの地はアケメネス朝ペルシャの領域下にあった。ベヒストゥン碑文には、アケメネス朝の属州としてバークトリシュの名が見える。紀元前330年前後、アレクサンドロス大王の軍がペルシャ軍を破って以降、多くのギリシャ人が移住し、この地はヘレニズム文化圏の一部となった。アレクサンドロスの没後はセレウコス朝シリアの支配下となり、紀元前250年頃、ギリシャのディオドトス1世がセレウコス朝から独立してグレコ・バクトリア王国を建てた。同国は、4代目の王デメトリオスの時代にその版図を北西インド方面にまで広げる。その後、バクトリア本国ではエウクラティデス1世が反乱を起こして別の王朝を建て、王国はグレコ・バクトリア王国とインド・グリーク朝に分裂した。多くのギリシャ人がインドへ移住した後、グレコ・バクトリア王国は紀元前2世紀半ば頃に遊牧民族の侵攻によって滅ぼされた。もともと少数派であったバクトリアのギリシャ人は、遊牧勢力に対抗する力を持たず、徐々に土着民族に同化して消滅していったものとみられる。グレコ・バクトリア王国を滅ぼした民族については大月氏であるとも、周辺の他の遊牧民族であるとも言われ、判然としない。また、この頃からクシャーナ朝が成立する紀元後1世紀頃までのバクトリアの歴史は不明な点が多い。 古代、交易が盛んに行われていたアフガニスタンからは多数のコインが出土している。こうしたコインは、出土遺物の乏しいバクトリア王国の歴史や文化を知る大きな手がかりである。中でも、メナンドロス1世(ミリンダ王)のコイン(画像参照)は、ギリシャ文字と土着のカローシュティー文字の両方が使用されている点で興味深い。このコインは表にヘルメットを被った王の横顔、裏には盾を持って立つアテナの立像を表す。表にはギリシャ文字で「バジレウス・ソテロス・メナンドロイ」(王の、救済者の、メナンドロスの)とあり、裏には同じ意味のことがカローシュティー文字で記されている。カローシュティー文字はガンダーラ語を記述するために、現在のパキスタン北部とアフガニスタン北部で使用された古代文字である。
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