アケメネス朝からグレコ・バクトリア王国とは? わかりやすく解説

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アケメネス朝からグレコ・バクトリア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:04 UTC 版)

中央アジアの美術」の記事における「アケメネス朝からグレコ・バクトリア王国」の解説

アム川流域、同川とヒンドゥークシュ山脈の間に広がる気候温和肥沃な土地は、古くバクトリア呼ばれイスラム化以後トハリスタン呼ばれた7世紀にここを訪れた玄奘トカラ国(覩貨邏国)と記している。紀元前6世紀半ば頃から、バクトリアの地はアケメネス朝ペルシャ領域にあったベヒストゥン碑文には、アケメネス朝属州としてバークトリシュの名が見える。紀元前330年前後アレクサンドロス大王の軍がペルシャ軍破って以降多くギリシャ人移住し、この地はヘレニズム文化圏の一部となったアレクサンドロス没後セレウコス朝シリア支配下となり、紀元前250年頃、ギリシャディオドトス1世セレウコス朝から独立してグレコ・バクトリア王国建てた同国は、4代目の王デメトリオス時代にその版図北西インド方面にまで広げるその後バクトリア本国ではエウクラティデス1世反乱起こして別の王朝を建て、王国グレコ・バクトリア王国インド・グリーク朝分裂した多くギリシャ人インド移住した後、グレコ・バクトリア王国紀元前2世紀半ば頃に遊牧民族侵攻によって滅ぼされた。もともと少数派であったバクトリアギリシャ人は、遊牧勢力対抗する力を持たず徐々に土着民族に同化して消滅していったものとみられるグレコ・バクトリア王国滅ぼした民族については大月氏であるとも、周辺の他の遊牧民族であるとも言われ判然としないまた、この頃からクシャーナ朝成立する紀元後1世紀頃までのバクトリア歴史不明な点が多い。 古代交易盛んに行われていたアフガニスタンからは多数コイン出土している。こうしたコインは、出土遺物乏しバクトリア王国歴史文化を知る大きな手がかりである。中でもメナンドロス1世ミリンダ王)のコイン画像参照)は、ギリシャ文字土着のカローシュティー文字両方使用されている点で興味深い。このコインは表にヘルメット被った王の横顔、裏には盾を持って立つアテナ立像を表す。表にはギリシャ文字で「バジレウス・ソテロス・メナンドロイ」(王の、救済者の、メナンドロスの)とあり、裏には同じ意味のことがカローシュティー文字記されている。カローシュティー文字ガンダーラ語記述するために、現在のパキスタン北部アフガニスタン北部使用され古代文字である。

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