覩貨邏国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 03:03 UTC 版)
7世紀の玄奘による『大唐西域記』巻一の覩貨邏国の記事は、この時代のトハーリスターンを知る重要な史料となっている。以下は抜粋。 「 鉄門を出て覩貨邏国に至る。その地は南北千余里、東西三千余里ある。東は葱嶺(パミール高原)にせまり、西は波剌斯(ペルシア)に接し、南は大雪山(ヒンドゥークシュ山脈)があり、北は鉄門に拠っている。縛蒭(アム川)の大河が国の中ほどを西へ流れている。ここ数百年以来、王族は嗣(後継ぎ)を断ち、豪族力を競い合い、おのおの君主をほしいままに立てている。川に依り険に拠り、二十七国に分かれ、野を区画しているものの、全体としては突厥(西突厥)に従属している。 」 さらに、『大唐西域記』巻十二には旅の帰り道に西域南道を通った際の、“覩貨邏の旧地”という場所を通過したことを記録している。その記録には「大流沙を行くこと四百余里、覩貨邏の故地に至る。この国は久しく人の住むこともなく、城は全く荒れ果てている」とあり、この廃址は尼攘(ニヤ)城と折摩馱那(チャルチャン)との方位・距離から見て、現在のエンデレに比定されている。この場所はタリム盆地の南に位置しており、トハーリスターンからは離れた位置にあるのだが、玄奘は“覩貨邏の旧地”と記している。これをトハラ人がグレコ・バクトリア王国に侵入する以前のことを指すのか、その後のトハラ人(クシャーナ朝時代の分布)を指すのか、それともトハラ人のことではないのかは不明である。
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