覚鑁と新義派教学とは? わかりやすく解説

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覚鑁と新義派教学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 00:22 UTC 版)

真言宗」の記事における「覚鑁と新義派教学」の解説

宗団は、師資相承重視するため、事相真言密教実践するための作法修法作法など)の違いにより分派していった。ただし、教学教義そのもの空海により大成されていたため、平安時代半ばまで宗内論争は殆どなかった。 11世紀末、覚鑁興教大師)は、大伝法院創建教学振興のために大伝法会復興行った東寺支配から高野山独立図り東寺長者金剛峯寺座主兼職する慣例廃止し金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗したその後座主辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争続いた。両派は、古義古義真言宗)・新義新義真言宗)に分かれていった。のちに両派は教義的にも、一密成仏法身説法などについて違い生じることとなる。 1290年正応3年)には、頼瑜大伝法院根来山に移し大日如来加持法身説(新義)を唱えて新義真言宗教義基礎確立した徳川家康保護を受け、1601年慶長6年)に玄宥が、根来寺にあった智積院京都東山七条再建した。のちに真言宗智山派総本山となった

※この「覚鑁と新義派教学」の解説は、「真言宗」の解説の一部です。
「覚鑁と新義派教学」を含む「真言宗」の記事については、「真言宗」の概要を参照ください。

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