両唐書の吐火羅葉護国
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『大唐西域記』の「覩貨邏国」と同じ国を指すが、『旧唐書』・『新唐書』では『隋書』と同じく「吐火羅」の語を用いている。 6世紀の中ごろ、突厥の木汗可汗(在位:553年 - 572年)は叔父の室點蜜(イステミ)に中央アジア攻略を命じ、サーサーン朝と共闘でエフタルを滅ぼした。これ以降、突厥可汗国による中央アジア支配が始まり、常にその地には西面可汗と葉護(ヤブグ)が置かれ、各国の王は突厥可汗国の冊封を受けた。 やがて突厥可汗国は東西に分裂し、中央アジアは西突厥によって支配されるが、相次ぐ可汗の失政により西域諸国の離反を招いた。しかし、射匱可汗(在位:612年 - 618年)と統葉護可汗(在位:618年 - 628年)の代になると、一時衰退していた西突厥を盛り返し、中央アジアの西域諸国を再びその勢力下に置くことに成功した。この頃から吐火羅国も西突厥の従属下になったと思われ、吐火羅国の王は葉護の称号を賜り、吐火羅葉護国となる。628年、統葉護可汗が死去すると、西突厥可汗国は内乱状態となり、2人の可汗が並立し、従属下の西域諸国も二分された。このとき吐火羅国は乙毘沙鉢羅葉護可汗(在位:640年 - 641年)に属す。 一方で唐にも朝貢をするようになり、武徳年間(618年 - 626年)からたびたび遣使を送って方物を献上した。永徽元年(650年)5月には駝(ラクダ)のような大鳥(ダチョウか?)を献上している。 貞観15年(641年)、乙毘沙鉢羅葉護可汗を滅ぼした乙毘咄陸可汗(在位:638年 - 653年)が兵を率いて吐火羅国を攻撃してきたため、吐火羅国は乙毘咄陸可汗の従属下となる。こうして他の西域諸国も乙毘咄陸可汗の従属下に入った。しかし、その圧政のために再び西突厥内で内乱が起き、唐の協力もあって乙毘射匱可汗(在位:641年 - 651年)が立てられた。民から見離されたことを知った乙毘咄陸可汗は吐火羅国へ亡命する。 貞観21年(647年)、サーサーン朝の伊嗣侯(ヤズデギルド3世、在位:632年 - 651年) は懦弱なため大首領に放逐され、吐火羅国に奔走してくるが、到着しないうちに大食(イスラーム帝国)の兵に殺された。その子の卑路斯(ペーローズ2世)は難を逃れて吐火羅葉護に亡命してきた。 顕慶年間(656年 - 661年)、唐は吐火羅国の阿緩城を月氏都督府として各小城を24州に分割し、その王阿史那に都督を授けた。 儀鳳3年(678年)、唐は吏部侍郎の裴行倹を吐火羅国に派遣し、亡命中の卑路斯を冊封して波斯(ペルシア)王とした。その後も卑路斯は母国に帰国することなく20数年間、数千人とともに吐火羅国で亡命生活を続ける。 開耀元年(681年)12月、吐火羅国は唐に金衣一領を献上したが、高宗はそれを受け取らなかった。神龍元年(705年)、吐火羅王の那都泥利は弟の僕羅を遣わして唐に入朝、宿衛に留まる。その後の開元(713年 - 741年)、天宝(742年 - 756年)年間にも数回朝貢したため、唐は吐火羅の君主である骨咄禄頓達度(クトゥルグ・トン・タルドゥ)を冊立して吐火羅葉護(トカラ・ヤブグ)・挹怛(エフタル)王とした。その後、朅師が吐蕃を招き寄せて吐火羅国を攻撃してきたため、葉護の失里忙伽羅は安西兵の助討を唐に請求し、帝は出師をなしてこれを破った。 至徳3載(758年)6月、吐火羅国と康国の遣使が唐に朝貢するが、7月に吐火羅葉護の烏利多など九国の首領が来朝し、安史の乱鎮圧の協力を願い出たため、粛宗は朔方行営に赴かせた。
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