汗国
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汗国(かんこく、ハンこく、Khanate)は、汗(カン、ハン、qan)[注釈 1]を君主とする君主国を指す用語である。君主号としての「カン」「ハン」はモンゴル高原から中央アジアを中心とした、テュルク系およびモンゴル系の遊牧民王朝でよく用いられたが、モンゴル帝国時代以降、ジョチ・ウルス崩壊の影響を受けて、中央アジア以西のキプチャク草原、ルーシ、カフカス(コーカサス)などの地域にも広がった。
概要
君主号としての汗
「カン/ハン(qan)」は「皇帝」という意味の「カガン/カアン/ハーン(qaγan)」とは違い、皇帝より格下の「王」という意味である[1]。モンゴル帝国では皇帝号(カアン)を帯びる元朝とハン号を帯びるそれ以外の政権(ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルスなど)にわかれる[2]。
ハン国の形成
9世紀にウイグル可汗国の崩壊後、モンゴル高原では九姓タタル、阻卜、烏古などが割拠し、やがてメルキト、ナイマン、ケレイト、タタル、モンゴルなどが形成された。その内の有力部族であるモンゴル、ナイマン、ケレイトは君主号としてカン(Qan)を用いて複数部族を束ねる存在となる。
チンギス・カンが率いるモンゴル帝国が勃興すると、第2代のオゴデイは他のカンから卓越した存在として「カアン(ハーン)」(Qa'an)という君主号を採用し、以降の歴代皇帝に使用された[3]。一方でオゴデイの死後、後継者争いによって帝国の有力ウルスが分離独立し、皇帝(カアン)直轄領である元朝とは別に、ジョチ・ウルス、イルハン朝、チャガタイ・ハン国の3つのハン国が形成された。
モンゴル帝国以後
分裂しおのおの独自の発展を遂げたウルスも14世紀には衰退し、それぞれ滅亡の道を歩む。しかし、ハンを君主とする伝統は、その後もテュルク系・モンゴル族系の遊牧民継承国家に受け継がれた例が多い。特にロシアを地盤としたジョチ・ウルス崩壊後の後継国家に著しい(なお、ロシア側からはモンゴル支配を「タタールのくびき」と呼ぶ)。各地において建国されたハン国は、ロシア帝国やイスラム諸王朝に吸収されていったが、遅くは20世紀まで存続した(ヒヴァ・ハン国など)。
主なカン/ハン国
モンゴル帝国以前
モンゴル系ハン国
- チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)
- モグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)
- 西チャガタイ・ハン国
- イルハン朝(フレグ・ウルス)
- ジョチ・ウルス(金帳汗国/黄金のオルド)
- 青帳汗国
- 白帳汗国
テュルク系ハン国
- ヤルカンド・ハン国(カシュガル・ハン国)
- トルファン・ハン国
- アストラハン・ハン国
- クリミア・ハン国
- ノガイ・オルダ
- カザン・ハン国
- ブハラ・ハン国
- ヒヴァ・ハン国
- シビル・ハン国
- コーカンド・ハン国
- カザフ・ハン国
- ウズベク・ハン国/シャーバーニー朝
- ナヒチェヴァン・ハン国
- エレバン・ハン国
- バクー・ハン国
- ギャンジャ・ハン国
- カシモフ・ハン国
脚注
注釈
- ^ 可汗、カガン、カアン、ハーン(qaγan)はカン/ハンとは別。
出典
参考資料
- 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』 講談社〈講談社現代新書〉1996年6月、ISBN 4-06-149307-8。
- 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』講談社, 2008年2月、講談社学術文庫, 2016年.
関連項目
- 可汗国のページへのリンク