内乱と可汗国の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
崇徳可汗の次は弟の曷薩特勤が立って昭礼可汗(在位:824年 - 832年)となったが、彼はその配下に殺されてしまう。続いて従子の胡特勤が立って彰信可汗(在位:832年 - 839年)となったが、彼もまた宰相の掘羅勿(キュレビル、Küräbir)という者に殺され、代わりに㕎馺特勤(在位:839年 - 840年)が立てられて可汗となった。 当時のモンゴル高原では異常気象が相次ぎ多くの家畜が死に絶えた。渠長(宰相)の句録莫賀(句録末賀、キュリュグ・バガ)は掘羅勿を恨み、黠戛斯(キルギス)10万騎を招き寄せて回鶻城(オルド・バリクか?)を攻め、㕎馺可汗と掘羅勿を殺し、その牙帳を焼き払った。これによって回鶻可汗国は崩壊し、諸部は分散した。宰相の一人である馺職(そうしょく)は厖特勤の15部とともに葛邏禄(カルルク)に奔走し、残りは吐蕃(河西)と安西(タリム盆地)に逃げ込んだ。
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