内乱と帝国の衰退、滅亡とは? わかりやすく解説

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内乱と帝国の衰退、滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:34 UTC 版)

パレオロゴス王朝」の記事における「内乱と帝国の衰退、滅亡」の解説

パレオロゴス王朝の最も深刻な問題一つは、祖父と孫、岳父娘婿父と子など皇室内で頻発した帝位争い内乱であったそのたびオスマン帝国セルビア王国北イタリア都市勢力介入したために、帝国内外共に混乱満たされ衰退する一方であった。東西からの攻撃受けた帝国領土次々失われ14世紀半ばにはコンスタンティノポリスの他にはギリシャごく一部維持するのみで、「ローマ帝国」とは名ばかり小国転落してしまった。一部知識人や一民衆は、帝国没落神罰であると考えるようになってしまったのであるヨハネス5世パレオロゴスの代に、帝国はついにオスマン属国にまで零落し帝都オスマン軍にたびたび包囲された。帝国側もマヌエル2世パレオロゴスやその息子ヨハネス8世パレオロゴス・コンスタンティノス11世ドラガセスが西欧へ軍事援助要請し東西教会合同行ってローマ教皇首位権認めるというプライドかなぐり捨て外交努力行った援軍得られなかった。 1453年5月29日未明メフメト2世率いオスマン軍との2ヶ月にわたる攻防戦の末にコンスタンティノポリス陥落しコンスタンティノープルの陥落)、コンスタンティノス11世は戦死東ローマ帝国1000年古代ローマ帝国から数えれば2000年以上という長き渡ったその歴史終えることとなった。 なお、帝国の滅亡後も、1460年までコンスタンティノス11世の兄弟であるデメトリオストマスペロポネソス半島モレアス専制公領拠って抵抗していたが最終的にオスマン降伏トマスイタリアへ亡命し、その娘ゾエソフィア)はモスクワ大公国イヴァン3世嫁いでパレオロゴス王朝血統ロシアへ伝えた他、一部の子孫が現在でもイタリアイギリス生活しているという。 帝国征服したオスマン朝メフメト2世ローマ帝国カエサルと自認し東ローマ帝国後継者として振る舞ったと言われている。支配者宗教キリスト教からイスラム教代わり制度上にもかなりの差異存在する上、支配民族トルコ人だったためこの考え方自体永続的な意義を持たなかった。

※この「内乱と帝国の衰退、滅亡」の解説は、「パレオロゴス王朝」の解説の一部です。
「内乱と帝国の衰退、滅亡」を含む「パレオロゴス王朝」の記事については、「パレオロゴス王朝」の概要を参照ください。

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