内乱の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)
「エストニアの独立回復」の記事における「内乱の危機」の解説
しかし、その一方でモスクワの強硬姿勢は一層高まり、5月14日にゴルバチョフはエストニアとラトビアの独立宣言が無効であると公式に表明した。翌15日には5000人ともいわれる族際運動支持者がトーンペア城に集結し、赤旗を掲げて城門をこじ開け、庁舎への侵入を図るという事態に至った。この動きはモスクワによって仕組まれたものであり、同日にはリガでも同様の事件が発生し、タリンに駐留するソ連軍(エストニア語版)も出動の合図を待っていた。 この一触即発の事態に、サヴィサールはラジオ放送で支援を訴え、これに応えて1万5000人のエストニア人が、政府を支援するためにトーンペア城に駆け付けた。彼らは、族際運動を取り囲むと静かにエストニア民謡(ロシア語版)を合唱し、ロシア人たちは人垣に開けられた道を通って平和裏に退散していった。 非暴力が暴力に打ち勝った「歌う革命」の象徴たるこの出来事により、サヴィサール政権と最高会議への支持が高まる一方、エストニア会議の影響力は弱まっていった。しかし、あくまでも新連邦条約による連邦再編を図ろうとするモスクワと、連邦離脱を求めるエストニアとの間に交渉の余地はなかった。行き詰まるサヴィサール政権に対し、エストニア会議は起死回生を狙い、「自由エストニア」連合 (et)と協力してサヴィサールの退陣要求を発した。しかし結局は何の成果も得られず、むしろ共産党系の「自由エストニア」と野合したエストニア会議の信頼が失墜する結果に終わった。
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