内乱の経過とは? わかりやすく解説

内乱の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 02:55 UTC 版)

サーサーン内乱 (628年‐632年)」の記事における「内乱の経過」の解説

アルダシール3世治世中、ホスロー2世母方従弟マードゥー・グシュナースプが宰相任命され国政牛耳った。翌年シャフルバラーズ6000人の兵を率いてクテシフォン進軍し、街を包囲した。しかしこれを攻略できなかったので、彼はペルシグ派でカワード2世時代宰相だったペーローズ・ホスローや、ニームルーズのスパーフベドであるナムダー・ユシュナスと同盟して体勢立て直した。彼らの援助受けたシャフルバラーズクテシフォン攻略成功しアルダシール3世やマードゥーその他彼らを支持していた貴族たちを処刑したが、40日後に彼もファールフ・ホルミズドに殺害された。ファールフ・ホルミズドはホスロー2世の娘ボーラーン即位させ、自らは宰相地位得た。 しかしボーラーンまた、シャフルバラーズの子であるシャープーリ・シャーヴァラーズ帝位奪われた。そして彼も、ペーローズ・ホスローに帝位追われた。ペーローズ・ホスローは、ボーラーンの妹アーザルミードゥフト帝位につけたアーザルミードゥフト貴族たちの言を容れてファールフザードを解放し宮廷高位復帰させようとした。しかしファールフザードは女性君主仕えることを拒否し、エスタフルの神殿引退してしまった。アーザルミードゥフト即位後、ファールフ・ホルミズドは「イランの民の指導者にして」と名乗り、エスタフルやメディアニハーヴァンドで「ホルミズド5世」と刻んだ硬貨発行し始めた。さらに彼は自らの地位をかためペルシグ派をも味方につけようとして、アーザルミードゥフト求婚したアーザルミードゥフト敢えて拒否をせず、ミフラーン家のSiyavakhsh(かつての高名なスパーフベド一時諸王の王称したバフラーム・チョービンの孫)の協力得てファールフ・ホルミズドを殺害した。しかし、彼女はその後すぐにファールフ・ホルミズドの息子ロスタム・ファーロフザードによって殺害されボーラーン復位させられた。ボーラーンはパフラヴ派とペルシグ派の指導者たちを引き合わせ和解させたが、後にペーローズ・ホスローが自らボーラーン絞殺したことで両派の協調関係敵対関係逆戻りした。しかしロスタムペーローズ部下たちはそれ以上対立を望まず、自分たちの指導者に再度和解強いた。こうして、それまで身を隠していたホスロー2世の孫ヤズデギルド3世統一君主として推戴された。

※この「内乱の経過」の解説は、「サーサーン内乱 (628年‐632年)」の解説の一部です。
「内乱の経過」を含む「サーサーン内乱 (628年‐632年)」の記事については、「サーサーン内乱 (628年‐632年)」の概要を参照ください。

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