内乱の経過
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「サーサーン内乱 (628年‐632年)」の記事における「内乱の経過」の解説
アルダシール3世の治世中、ホスロー2世の母方の従弟マードゥー・グシュナースプが宰相に任命され、国政を牛耳った。翌年、シャフルバラーズが6000人の兵を率いてクテシフォンに進軍し、街を包囲した。しかしこれを攻略できなかったので、彼はペルシグ派でカワード2世時代の宰相だったペーローズ・ホスローや、ニームルーズのスパーフベドであるナムダー・ユシュナスと同盟して体勢を立て直した。彼らの援助を受けたシャフルバラーズはクテシフォン攻略に成功し、アルダシール3世やマードゥーその他彼らを支持していた貴族たちを処刑したが、40日後に彼もファールフ・ホルミズドに殺害された。ファールフ・ホルミズドはホスロー2世の娘ボーラーンを即位させ、自らは宰相の地位を得た。 しかしボーラーンもまた、シャフルバラーズの子であるシャープーリ・シャーヴァラーズに帝位を奪われた。そして彼も、ペーローズ・ホスローに帝位を追われた。ペーローズ・ホスローは、ボーラーンの妹アーザルミードゥフトを帝位につけた。 アーザルミードゥフトは貴族たちの言を容れてファールフザードを解放し、宮廷の高位に復帰させようとした。しかしファールフザードは女性の君主に仕えることを拒否し、エスタフルの神殿に引退してしまった。アーザルミードゥフトの即位後、ファールフ・ホルミズドは「イランの民の指導者にして柱」と名乗り、エスタフルやメディアのニハーヴァンドで「ホルミズド5世」と刻んだ硬貨を発行し始めた。さらに彼は自らの地位をかためペルシグ派をも味方につけようとして、アーザルミードゥフトに求婚した。アーザルミードゥフトは敢えて拒否をせず、ミフラーン家のSiyavakhsh(かつての高名なスパーフベドで一時諸王の王を称したバフラーム・チョービンの孫)の協力を得てファールフ・ホルミズドを殺害した。しかし、彼女はその後すぐにファールフ・ホルミズドの息子ロスタム・ファーロフザードによって殺害され、ボーラーンが復位させられた。ボーラーンはパフラヴ派とペルシグ派の指導者たちを引き合わせ和解させたが、後にペーローズ・ホスローが自らボーラーンを絞殺したことで両派の協調関係は敵対関係に逆戻りした。しかしロスタムやペーローズの部下たちはそれ以上の対立を望まず、自分たちの指導者に再度の和解を強いた。こうして、それまで身を隠していたホスロー2世の孫ヤズデギルド3世が統一君主として推戴された。
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