内乱の勃発と清盛の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)
治承4年(1180年)5月、以仁王が挙兵する。以仁王は八条院の猶子となり、八条院女房で「無双之寵臣」と呼ばれた三位局を妻としていた。以仁王が八条院の支援を受けていることは明白だったが、清盛にすれば高倉院政を何とか軌道に乗せようとしていた矢先の事件であり、ここで八条院と全面衝突になることは避けたかった。しかし、八条院に養われている以仁王の子をそのまま放置することはできず、頼盛に捜索命令が出された。頼盛が選ばれたのは妻が八条院の女房で、八条院との交渉には最適と判断されたためと思われる。 頼盛にすれば気の進まない役割を押し付けられたようなものだったが、命令には逆らえず以仁王の子の身柄を確保して出家させた。21日、以仁王を匿った園城寺を攻めることが決定され、頼盛は攻撃軍の大将の一人に選ばれている。以仁王の挙兵は鎮圧されたが、園城寺・興福寺が同調したことは成立したばかりの高倉院政にとって重大な脅威となった。 6月になると、清盛は突如として福原行幸を強行する。福原では頼盛の邸宅が内裏となり、次いで高倉上皇の御所となった。頼盛は邸宅を提供した功により正二位に叙せられる。遷都計画は準備不足のため思うように進まず、全国各地で反乱が頻発していた。11月には富士川の戦いで追討軍が大敗したという報告が福原に届き、頼盛と教盛が新たに東国追討使となっている。ここに至り、清盛も遷都を断念せざるを得なくなった。11月26日、京都に戻った高倉上皇は頼盛の六波羅池殿に入り、そこで病の床についた。翌月から平氏は総力を挙げて反撃を開始する。一門の知行国には兵糧米が課せられ、能登国(教盛の知行国)・但馬国(経盛の知行国)は了承したが、紀伊国・佐渡国(頼盛の知行国)は「力及ばず」と返答した。 翌治承5年(1181年)正月14日、高倉院が池殿で崩御する。幼児の安徳帝が政務をとることはできず、後白河院の院政再開は避けられなくなった。清盛は畿内惣官職を設置して宗盛を任じ、2月17日には「警衛のため」という理由で安徳帝を八条に新造された頼盛邸に遷すなど、矢継ぎ早に対応策を講じていたが、閏2月4日に死去した。高倉院と清盛の相次ぐ死は、国政における最高権威と実質的指導者が一挙に失われたことを意味し、平氏にとって致命的な打撃となった。
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