内乱と家督相続とは? わかりやすく解説

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内乱と家督相続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:45 UTC 版)

今川義元」の記事における「内乱と家督相続」の解説

永正16年1519年)、今川氏親三男として生まれる。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)。ただし、義元は本来は側室の子花倉の乱後に寿桂尼養子縁組をしたとする説もある(後述)。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝、および彦五郎がいたために4歳仏門出され駿河国富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられた。享禄2年1529年)に承舜が没したために、彼の弟子であった九英承菊(後の太原雪斎)がその役割継承したその後雪斎と共に建仁寺入り常庵龍崇の元で得度し栴岳承芳せんがくしょうほう)となった。さらに雪斎と共に妙心寺大休宗休学び学識深めたその後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻るが、その直後天文5年1536年)に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の彦五郎がいたために継承はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日死亡したために継承巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳主君であり本流に当たる征夷大将軍足利義晴から偏諱賜り義元名乗った。だが当主継承は有力家臣福島(くしま)氏の反対混迷化し最終的に福島氏自家の血を引く義元異母兄玄広恵探当主として掲げて反旗を翻した花倉の乱)後、義元は(彦五郎)を名乗った推察される。家督継承者として正当化図ったとされる。 恵探側は今川館攻め寄せる攻勢をみせたが太原雪斎岡部親綱義元側の家臣団奮戦前に苦戦続いた加えて義元伊豆国静岡県伊豆半島)・相模国神奈川県西南部)を領する後北条氏からの支援を得ることに成功すると一層敗色濃厚となり、花倉城陥落以って恵探は自害した内乱鎮めて家督相続果たした義元今川氏当主となり、自らに忠義示した家臣重用し支配体制整えた

※この「内乱と家督相続」の解説は、「今川義元」の解説の一部です。
「内乱と家督相続」を含む「今川義元」の記事については、「今川義元」の概要を参照ください。

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