中御門宣胤とは? わかりやすく解説

中御門宣胤

読み方なかみかど のぶたね

室町後期歌人公卿。明豊の子。法名は乗光。勅命により『万葉類葉抄』を撰定する。また朝儀復興志して一条兼良らに先例学び後代伝えた。『宣胤卿記二十三巻がある。大永5年(1525)歿、84才。

中御門宣胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/30 13:21 UTC 版)

 
中御門宣胤
時代 室町時代中期-戦国時代
生誕 嘉吉2年(1442年
死没 大永5年11月17日1525年12月1日
改名 宣胤→乗光(法名)
官位 従一位権大納言
主君 後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇
氏族 藤原北家勧修寺流中御門家
父母 父:中御門明豊、母:慶覚の娘
甘露寺朝子(甘露寺親長の娘)
宣秀隆永、宣増、黒木の方山科言綱室)、寿桂尼、尚子
特記
事項
今川氏輝義元の母方の祖父
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中御門 宣胤(なかのみかど のぶたね)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿藤原北家勧修寺流中御門家当主。官位は従一位・権大納言。出家後の法名は乗光。

生涯

嘉吉2年(1442年)、権大納言中御門明豊の子として生まれる。翌年、数え2歳にして叙爵。

文安5年(1448年従五位上・右衛門佐に任ぜられる。康正元年(1455年正五位左少弁蔵人、翌年に右中弁に進み、以後朝廷の実務に携わる。

寛正2年(1461年)には後花園天皇蔵人頭、寛正5年(1464年後土御門天皇の蔵人頭となっている。やはり実務派官僚である甘露寺親長の娘を娶った。文正元年(1466年従三位参議となり公卿に列する。

応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱以来、朝廷儀式の荒廃・形骸化は著しく、これを嘆いた宣胤は復興を目指して公卿の長老で有職故実に詳しい一条兼良らから教えを請い、先例を学んで若い公卿らに指導した。また、書道和歌にも巧みで、しばしば揮毫を依頼されている。

長享2年(1488年)、権大納言に昇進。永正8年(1511年)には従一位に昇叙されるが、その後まもなく出家し、乗光と号する。

大永5年(1525年)11月17日、薨去。享年84。

人物

日記として『宣胤卿記』がある。娘の寿桂尼は、今川氏親に嫁ぎ、氏輝義元などを生み、孫の今川氏真の後見役を務めるなど影響力が強く、駿河の女大名と呼ばれた人物である。また、彼女が生んだ娘の1人が宣胤の嫡孫にあたる中御門宣綱に嫁いでいる。

官歴

系譜

参考文献




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