内乱と経済的衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 08:04 UTC 版)
マンスール王の息子たちは、いずれも無能な人物であった。長子ブー・ファリーズ(在位:1603年 - 1608年)はマラケシュで、次子ムハンマド・エッ・シェイク2世エル・マームーン(在位:1608年 - 1613年)はフェズで、三子ムーラーイ・ジダーヌ(在位:1613年 - 1627年)は、マラケシュとフェズの中間、タードラ地方でそれぞれ宮廷を開いて王を称した。ムーラーイ・ジダーヌは、フェズに入ってマームーンを投獄するが、ブー・ファリーズは、マームーンを密かに解き放つことによってジダーヌ勢力の弱体化を狙うといったように内戦状態に入った。以後この内乱状態は20年近く続くことになる。1613年、マームーンは暗殺され、子のアブドゥラーがマームーンの勢力を受け継いだ。アブドゥラーは伯父のブー・ファリーズを暗殺する。ジダーヌは、やがてフェズと北部平野を放棄し、以後ジダーヌとその子孫は、1627年までマラケシュを根拠地とすることになる。王家の嫡流がこのような状態であるので、王家の血を引く分家諸侯も自らの根拠地で独立を図るようになり、マンスール王時代には、「地下に」潜んでいた同胞団や修養所勢力が分家諸侯との同盟によって勢力拡大を図るようになる。このようなサアド朝の分裂状態は、商人たちにとっては、分家諸侯の領地を通るたびに多額の通行税がかけられるという深刻な事態を生み出し、経済を沈滞化させていった。
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