内乱、滅亡とは? わかりやすく解説

内乱、滅亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:49 UTC 版)

ムワッヒド朝」の記事における「内乱、滅亡」の解説

アーディルの弟のアブー・アル・アラーはバイヤーシーとの戦い明け暮れ1226年コルドバ市民反乱でバイヤーシーは戦死したカスティーリャ軍の進出防げず、賠償金支払い休戦するしかなかった。1227年9月15日アラーは兄に反抗してカリフ宣言マアムーン称号名乗ったイドリース・マアムーン)。10月に兄がシャイフたちに暗殺されユースフ2世の弟でアーディル・マアムーン兄弟の甥ヤフヤー・ムウタスィムシャイフたちにカリフとして擁立されると、対抗のためマアムーンモロッコ渡ったが、その際キリスト教徒傭兵500人も連れたことはムワッヒド朝宗教権威失墜させた。 さらに本拠地マグリブでもムワッヒド朝対す反乱起こったマグリブナースィル治世の頃から不穏な動き見られシャイフでガーニヤ族討伐戦功上げたイフリーキヤ総督アブドゥル・ワーヒドは半独立姿勢示しベルベル人一派マリーン族も1213年頃から反乱準備していた。 マアムーン治世モロッコで彼とムウタスィム内乱激化して政治混乱したが、1229年にはマアムーン自らが布告発しタウヒード思想放棄した。この結果ムワッヒド朝はますます求心力失い、アブドゥル・ワーヒドの息子アブー・ザカリーヤー1世ハフス朝興して独立するなど、版図急速に縮小してモロッコ周辺支配するのみとなった1232年マアムーン死後息子のアブドゥル・ワーヒド2世ムウタスィム討ち取り兄弟のアブールハサン・サイード、続いて又従兄弟のウマル・ムルタダーが君主になったが、ムワッヒド朝新興マリーン朝ハフス朝との抗争忙殺され事実上アンダルスから撤退せざるを得なかった。アルジェリアでもヤグムラーサン・イブン・ザイヤーン離反してザイヤーン朝興しマグリブ分裂、もはやカリフは有力官僚軍人傀儡化しタイファ乱立するアンダルスキリスト教諸国征服されナスル朝グラナダ王国などのタイファカスティーリャ臣従して生き延びた1269年マリーン朝君主アブー・ユースフ・ヤアクーブマラケシュ征服し最後のカリフイドリース・ワーシクは戦死ムワッヒド朝滅亡した残党はティンメル(英語版)に逃げた1276年までに討伐された。

※この「内乱、滅亡」の解説は、「ムワッヒド朝」の解説の一部です。
「内乱、滅亡」を含む「ムワッヒド朝」の記事については、「ムワッヒド朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「内乱、滅亡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内乱、滅亡」の関連用語

内乱、滅亡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内乱、滅亡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのムワッヒド朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS