内乱の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:41 UTC 版)
11世紀中旬、ノルウェーではオーラヴ2世の義弟ハーラル3世が、デンマークではスヴェン2世がそれぞれ新王朝を興し、イングランドの制圧を試みたが失敗に終わり、北欧におけるイングランド侵攻は終息することとなった。1060年にはスキョル王朝が滅び、同年ステンキルによって新しい王朝が開かれた。こうした各国の凋落、および王位を巡る角遂は国内に大きな混乱をもたらし、内乱の時代と呼ばれるようになった。また、ハンザ同盟や神聖ローマ帝国など、外部との深い関わり合いを持つようになったこともあって、北欧各国は社会・経済・政治が新しく生まれ変わっていく過程で大きな転換期を迎えることとなった。 ノルウェーでは貴族たちはさまざまな党派に分かれてそれぞれが王族を擁して抗争を続けたことにより次第にその力を失い没落していった。貴族たちの旧領は国軍として創設された騎士たちに充てられるようになり、ホーコン4世の時代には騎士貴族が台頭するようになった。他方で、諸外国との親交も密に行われるようになり、中でも王女インゲボルグがスウェーデンの王子エーリックとの間に儲けたマグヌス7世はスウェーデン、ノルウェー両国の王に推戴され、両王国連合の端緒をつくった。 スウェーデンではステンキル王朝が1122年に滅んだ後はスヴェルチェルが王位に就くも1130年に暗殺、エーリック9世が王位に就いた。1世紀に渡るスヴェルチェル家とエーリック家による凄惨な王位継承争いが続く中でフォルクング家が勢力を伸ばし、宰相であったビルイエルはエーリック11世の妹との間に儲けたヴァルデマールに王位を継がせて1266年、フォルクング王朝を興した。摂政となったビルイエルは地方法を廃して国法を定めて貴族の勢力を抑える傍ら、ハンザ同盟と友好関係を結び、王朝の基盤を固めていき、マグヌスの時代に入るとフォルクング王朝の勢力はより強大なものとなった。マグヌスは元老院を儲けて貴族や司教を政治に関与させるとともに職業軍人制を布いて騎士からなる国軍の編成を行って軍事国家としての体制を整えた。しかし、その後は再び王位継承権を巡った争いが勃発し、ノルウェー王であったマグヌス7世を迎え入れた貴族たちによってビルイエルはデンマークへと放逐されることとなった。 デンマークでは1076年にスヴェン2世が逝去するとその王位を巡って内紛が勃発し、加えてドイツ諸侯やヴェンデ族、バルト海の海賊たちの襲来によって国力が大きく疲弊することとなった。1103年に大司教座がルンドに設置されると教会の政治力が増大し、国内の紛憂はさらに激化した。ヴァルデマール1世とアブサロンの登場により一時王族と教会が手を組み、国勢を盛り返した期間もあったが、後は続かず、1340年のヴァルデマール4世即位に至るまで内紛は続き、無政府・無秩序状態となって国家として解体寸前に陥るほどの追い詰められた状態にまでなっていた。 また、12世紀中旬、ドイツの商人たちはリューベックを拠点に北進をはじめ、スウェーデンのゴットランド島の商人たちを圧倒するようになる。12世紀末に島内にヴィスビューという都市を建設し、ここからさらにロシア貿易、ノルウェー貿易を開始した。13世紀末になるとドイツの商人たちが立ち上げた都市が互いに同盟を結ぶに至り、いわゆるハンザ同盟が結成されると、北欧に大きな影響を及ぼすようになる。北欧諸国はハンザ同盟勢力に対抗するため、法による規制をかけようとしたが、逆に経済封鎖による報復の憂き目に会い、これに屈服してしまうこととなった。ハンザ同盟は北欧の経済を牛耳ると共にさまざまな特権を獲得していった。こうした動向はドイツから多数の移住者を生み出すに至り、北欧諸国にさまざまなドイツ文化が流入する要因となった。
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