マサチューセッツの政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:21 UTC 版)
「ジョン・レバレット」の記事における「マサチューセッツの政治」の解説
レバレットは1640年にフリーマンになった後で、地元政界で活動的になった。1642年、レバレットとエドワード・ハッチンソンが、ナラガンセット族酋長ミアントノモーとの交渉のために外交使節として派遣された。これは土地のインディアン部族全てがイングランド人開拓者に対する戦争を仕掛けようとしているという心配がある中でのことだった。ミアントノモーがボストンに来て、ウィンスロップ総督に対し、彼らが聞いた噂は根拠の無いものであることを分からせた。レバレットはその後の政権における外交任務についても招聘されることになった。 レバレットはイングランドから戻った後に、その政治的活動を再開した。1651年には植民地の議会におけるボストンの2人の代表の1人に選出され、短期間だが下院議長を務めた。1650年代と1660年代を通じて議員を5期務めた。 レバレットは植民地民兵隊で人気ある指揮官であり、植民地の民兵法によって異常な事態に陥ることもあった。植民地はその民兵中隊の大きさを制限することに決めており、その士官は1つの地位のみを占めることに制限されていた。1652年、レバレットがサフォーク郡騎馬中隊長(大尉)であるときに、ボストンの歩兵中隊の1つや、マサチューセッツ砲兵中隊の隊長にも選ばれることになった。植民地の判事はレバレットに規則の例外を認めることを拒否し、ボストンの地位を諦めることを求められた。砲兵中隊については民兵を統制する規制から除外されていたので、その中隊長を合わせて就任することは認められた。 1652年、ジョン・エンデコット総督が植民地の北側境界を決めるために調査隊を派遣した。その境界は植民地認証でメリマック川の北3マイル (5 km) と規定されていた。その調査隊はメリマック川の北限が、現在のニューハンプシャー州ウィニペソーキー湖と呼ばれる場所の近くにあることを見つけたが、これは実際には誤りだった。この緯度を東西に伸ばした境界線は、現在メイン州の南部となっている小さな開拓地を多く含むことが分かった。エンデコットはレバレットを数人のコミッショナーの1人として派遣し、植民地政府にこれら開拓地を含められるよう交渉させた。その結果はヨーク郡の結成ということになったが、後にメイン州ヨーク郡となった。レバレットはこの時やその他の公式訪問の結果としてメインの土地の開発に興味を抱くようになり、そこのかなりの広さの土地に投資し、父から相続した土地を超えるようになった。 1655年、レバレットはイングランドにおけるマサチューセッツ植民地の代理人に正式に指名された。アカディア統治の期間との重複があるので、いつ実際にイングランドに行ったかは不明だが、その職を1662年まで務めることになった。1650年代、これはクロムウェルが護国卿であった時代だが、植民地は内乱の時代にレバレットとクロムウェルの間に培われた関係の恩恵を受けることになった。特にクロムウェルは植民地の商人に対して1651年航海法を強制する手段を採らなかった。また植民地の宗教的異端に対する抑圧的戦術について、苦情を見逃していた。植民地の宗教に対する極端な姿勢についてはレバレットが個人的に反対していたにも拘わらず、このような問題が起きていた。レバレットが国王チャールズ2世からナイトに叙されたという説は、文書化された形でしっかりとした根拠が見られない。
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