植民地の支持者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 04:11 UTC 版)
パウナルはマサチューセッツの政治的同盟者との対話を続け、何度かはイギリス議会の委員会に出て植民地事情について論評した。もち地位が得られるならばマサチューセッツに戻る可能性も検討しており、ノバスコシアの資産への投資を始め、マサチューセッツ総督であった時代にメインで認められた資産以上に植民地に持つ資産を拡張していた。1765年、エブラード・フォークナーの未亡人であり、チャールズ・チャーチル中将の娘であるハリエット・フォークナーと結婚した。このことでマールバラ公爵とのコネもできた。パウナル夫妻には4人の子供が生まれた。ハリエットは優美で知的な女性であり、パートナーの政歴を高める協力者となり、社交的な行事を主催し、パウナルの知的な追及を奨励した。1767年にイギリス議会の選挙への立候補を勧めた可能性もあり、このときトレゴニー選出の議員に当選した。 パウナルはマサチューセッツの利益を代表する代理人としての指名を得られることを期待し、植民地の役人との文通を再開したが、その目算は外れた。植民地から定期的に訪問者を受け入れており、ペンシルベニアの旧友であるベンジャミン・フランクリンが度々訪れていた。植民地の緊張が高まるのを警告として受け取り、イギリス議会と植民地管理部門の処理ミスが緊張を緩和するよりも助長していると見ていた。議会議員としての立場を利用して、1765年宿舎法など不人気な立法に対する植民地の反対を際立たせた。1768年にタウンゼンド諸法に対する抗議が暴力行為になった後で、ボストンに軍隊が派遣されたとき、議場に立ってイギリスと植民地の関係は綻びていると警告し、その結果は恒久的な断絶になりうると言った。 1770年、パウナルはフレデリック・ノース首相がタウンゼンド諸法を部分的に撤回したことに反対した。まだ茶に対する課税が議会の権力の象徴として残されたままだった。この法に関する議論の中で、パウナルはその税を続けることがアメリカ人の首にくびきを掛けるよりも、イギリス人の首の周りに「石臼」を置くことになると指摘し、内戦になるかもしれないと述べた。その発言は1770年3月5日に行われたが、それはボストン虐殺事件の起きた日だった。議会がアメリカ植民地の問題を理解できないという見解に意気を挫かれ、植民地の文通相手には憲法上の問題を通すことと暴力を避けることを続けるよう督促した。 当時の植民地アメリカの問題は一時的に横道に逸れていた。1772年、パウナルは議会にイギリスにおける食料生産と配分を改革する提案を行った。その法案は庶民院を通過したが、上院で修正され、庶民院はその先議権の侵害だとして修正された法案を拒否することになった。この法案は翌年成立し「パウナル総督の法案」と呼ばれた。それはアダム・スミスのような影響力ある人物など多くの者から称賛され、パウナルは古物商協会と王立協会の会員になるという名誉にも浴した。
※この「植民地の支持者」の解説は、「トマス・パウナル」の解説の一部です。
「植民地の支持者」を含む「トマス・パウナル」の記事については、「トマス・パウナル」の概要を参照ください。
- 植民地の支持者のページへのリンク