植民地の安定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 04:17 UTC 版)
「アーサー・フィリップ」の記事における「植民地の安定」の解説
シドニーの西20km程の所に農地に適した肥沃な土地(パラマタ)を発見し、1790年までに状況は安定した。彼は囚人ジェームズ・ルースにパラマタの農場を与え、食料を生産するように命じた。約1400人の住民の多くは家を持ち、食物を自給できるようになった。1790年6月にイギリスから第2陣の船団が到着した。しかし、この船団には100人以上の囚人が乗っていたが、彼らのうちのほとんどが病弱で働くことができなかった。そしてイギリス船Siriusは1790年3月に難破しており必要な物資が失われていた。その中で彼は人口の密集を解消するため、後に激しい虐待の地として悪名高くなるノーフォーク島に入植地を建設した。 1790年12月までに彼はイギリスに戻ることになっていた。しかし、植民地は政府に忘れられており何の指示も受けなかったため彼はそのまま植民地に残った。1791年に彼は政府から2つの囚人の船団とそれに加えて必要な物資が毎年送られるとの報告を受けた。しかし、その年の7月に2000人の囚人を乗せた第3陣の船団が到着しようとしていたとき、食糧は再び底をつき彼はカルカッタに船を派遣しなければならなくなった。 シドニーは木造の小屋やテントしかない集落だったが、1792年までに植民地は落ち着き始めた。捕鯨業が普及し、貿易船がシドニーを訪れ、刑期を満了した囚人は農業に従事するようになった。ジョン・マッカーサーと他の役人たちは羊を輸入し、羊毛の生産を開始した。植民地にはまだ農民や職人、商人が少なく、また囚人たちは自分たちの食糧を生産するだけに限られていた。 1792年の終わり、彼は食糧の不足から体調を崩しついにイギリスに戻る指示を受けた。そして1792年12月11日、彼はEora族のベネロングと数多くの動植物の標本とともにAtlantic号で帰国の途についた。彼の帰国時、ニューサウスウェールズにおけるヨーロッパ人は4,221人でそのうち3,099人が囚人であった。植民地開発の初期は苦闘と困難に直面していたが、最も厳しい時期は過ぎ、ニューサウスウェールズにおいて更なる飢餓は発生しなかった。彼は1793年5月にロンドンに到着し、辞表を提出、そして年間500ポンドの年金の支給を受けた。
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