マサチューセッツ湾直轄植民地副総督
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「トマス・ハッチンソン」の記事における「マサチューセッツ湾直轄植民地副総督」の解説
シャーリー総督の政敵が1757年にリコールを図ったとき、ハッチンソンはシャーリーの後任として総督になる運動で、イギリス軍の指導者ルードウン卿の後押しを求めて成功した。この期間、ハッチンソンはその年齢と、副総督スペンサー・フィップスの無気力さもあって、植民地の指導的政治家だった。ハッチンソンが総督になる目論見は成功しなかったが、1758年に副総督の指名を受けて、トマス・パウナル総督の下で務めた。ハッチンソンとパウナルとの関係は気まずいものだった。パウナルはシャーリーを排斥した政治活動の中心におり、ハッチンソンはシャーリーの庇護下に権力と影響力を高めていた。パウナルは植民地の人民主義派との関係を養い、シャーリー支持者の影響力を取り去ろうとし、時にはハッチンソンに以前支持した人々に反対するよう求めたこともあった。ハッチンソンはそれらの動きが植民地の安定を害するものであり、「総督の気まぐれ」と捉えたので、そうすることを断った。パウナルはハッチンソンに対する不信が募り、1759年遅くにはマサチューセッツを去ってイングランドに戻ることを求めた。政敵であるシャーリーの支持者であることと、人民主義支持者の指導者が死んだことで、この判断になった可能性がある。パウナルは1760年6月3日にマサチューセッツを離れ、ハッチンソンを総督代行にしていった。パウナルが退任してから数か月後、フランシス・バーナードがその後任に就くために到着した。
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