マサチューセッツ議会との論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:26 UTC 版)
「サミュエル・シュート」の記事における「マサチューセッツ議会との論争」の解説
シュートはマサチューセッツ議会と、王室の権限などの問題に関して幅広い範囲で論争を展開することになった。シュートが総督であった間に、議会は総督の権限を減らすことで議会の権限を拡張することに成功し、その後の総督と議会の関係に永続的に影響し、アメリカの独立まで続くことになった。通貨の問題が植民地の政治を二分する大きな問題だった。大勢の人民派が紙幣の発行拡大を支持し、経済的に強力な集団2つが通貨問題を扱う競合する案を支持した。バージェスの指名を確保した派閥は民間資産で保証される証書(紙幣)を発行する民営土地銀行の提案を支持し、一方ダドリーやその支持者達はシュートの後ろ盾となり、金に裏付けられる紙幣という概念を好んだ。 植民地でシュートに対抗する人民派を代表する指導者は、政治家かつ当時はマサチューセッツに属していたメイン地区の大きな土地所有者であるエリシャ・クック・ジュニアだった。クックの反対は通貨に関する意見の不一致と、メイン領土での林業に関することに根があった。ダドリー政権の間に、林業の利権者はイギリス議会による1711年シロマツ法に逆らっていた。その法は政府が木を船のマストに使うために、払下げが行われていない公有地の大きな木を保護しておくものだった。シュートは違法行為について厳しく取り締まることを求めたので、クック達の恨みを買うことになった。それ以前にクックは法に対して異議申し立てをしており、それ自体は合法だったが、急速に政治的な問題になった。1718年、クックは議会から総督評議員を務めるべく指名されたが、シュートがその選択に拒否権を使った。議会はさらに1720年にはクックを議長に指名した。このことについて、シュートがクックの指名受け入れを拒んだので、総督の権限について制度的な論争を始めさせた。シュートは議長指名に拒否権を使うのが自分の権限内にあると主張した。議会は議会で別の者を議長に指名することを拒み、翌年、シュートがその選出を告げられる前に、別の議長が就任した。 シュートと議会の不一致は、議会を短期間休会にする能力にまで拡大した。議会は総督によってのみ招集され、休会にされるのが正式であり、そのことで総督が議会を制御できる手段を提供していた。シュートは6日間の休会を宣することで問題を起こした。この件にクックの指名を拒んだことが組み合わされ、議会は事実上シュートの全ての行動に強く反対することになった。植民地の北部と東部の防衛は、当時ワバナキ連邦との問題が生じており、その防衛力を改善するための資金を総督が手当てすることに対しても、この反抗が及ぶことになった。 シュートが関わった議論の中でも悪評だったのは、議会がシュートの給与支払いを拒否したことに関してのものだった。これは度々議論の対象となり、他の案件にまで波及することがあった。1719年にシュートがクックの指名に拒否権を使ったことで、シュートの給与の減額に繋がった。給与問題は1730年代のベルチャー政権まで植民地議会と総督の間の定期的な不和の原因であり続けることになった。クックの派閥がシュートの政策を厳しく批判する小冊子を出版した後で、シュートは検閲を行おうとしたが、議会は提案された法案の成立を拒否し、実質的に植民地における出版の自由を合法化した。ボストンの保守的な宗教組織も、シュートがイングランド国教会の礼拝に出席することに関して留保を表明し、シュートの時として仰々しく騒がしい党派に対しても不快感を表した。
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