マサチューセッツ湾直轄植民地総督とは? わかりやすく解説

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マサチューセッツ湾直轄植民地総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:54 UTC 版)

フランシス・バーナード (初代準男爵)」の記事における「マサチューセッツ湾直轄植民地総督」の解説

バーナード植民地管理部とのコネ影響力持っていたが、1759年遅くにマサチューセッツ湾直轄植民地総督に指名された。通信の遅れと移動鈍さのために、バーナードボストン到着したのは1760年8月2日になってからだった。当初暖かく迎えられたが、マサチューセッツにおけるその任務難しいものになった王室指名役人政府税関役人を含む)が、航海法違反して捕まえられた船から利益分け前得ていたこともあり、航海法積極的に強制しようとした。これら捕獲に関する法的手続きは、王室指名した判事の前で、陪審員居ない海事裁判所審問されることとなり、極めて不人気だった。バーナード副総督トマス・ハッチンソン植民地最高裁判所首席判事指名することで、いきなりジェイムズ・オーティス・ジュニアと敵対した。その首席判事地位は、それ以前総督数人によって、オーティスの父に約束されいたものだった。オーティス・ジュニアはその裏切りに動揺し海事裁判所法務官地位王室の代表、総督検察官に相当)を辞任しその代わり商人がその船舶防衛するために弁論することに(時には無報酬で)奉じた。バーナード就任して初期のこの行動は、イギリスの植民地政策反対する「人民党」(オーティス率いた)と、それを支持する王室党」(ハッチンソン率いた)との間に明確な線を引くことになった1760年後半イギリス王ジョージ2世死去に伴い税関収税吏に援助令状再発行することが必要となり、バーナード難しさ複雑になった。これら令状基本的に制約の無い捜索令状であり、法的に議論のあるものであり、大変不人気だったので、後のアメリカ合衆国憲法では明確に禁止されることになったのだったハッチンソン首席判事として最初に行ったことがこの令状承認であり、その人気が無くなった。その令状イギリス臣民権利違背していると主張したオーティス人気を得ることになった1761年5月には植民地議会議員選出され、そこでバーナード政策に対して攻撃続け立場になった1761年議会会期で、オーティスマウントデザート島(現メイン州)のバーナードへの寄贈画策し税関による押収からバーナード注意を逸らす策略部分的に成功したオーバーナード! お前の悪事は我々の自由と平和を破壊するように仕組まれている大衆の目は注意深くお前の努力見ており、我々の安心を凝視してきた — Anonymous pamphlet, 1769 バーナード不人気は、1763年砂糖法1765年印紙法など他の課税関連諸法通じて続いた。この両法が成立して抗議行動が起こる中、印紙法対す反応街中暴動起こり、また植民地内の多く派閥総督対抗して統合された。1767年イギリスの議会タウンゼンド諸法成立し、各植民地では再度抗議の嵐が起こったマサチューセッツでは植民地議会が、他の植民地に送る回状発行しタウンゼンド諸法課税される商品ボイコットに加わるよう呼びかけた。1768年4月バーナードは、当時創設されたばかり植民地担当大臣指名されヒルズボロ伯爵ウィルズ・ヒルから、回状回収出来ないであれば議会解散するよう命令された。議会がこれを拒みバーナード7月議会解散したアメリカ独立戦争に関する歴史家ポーリン・メイアーは、バーナードロンドン送った手紙イギリス役人大きな影響与えたが、それらは現実を「歪めて」しまったと言っている。「派閥」が例え反対のための主要な手段として暴力取り入れたという誤った説得が、急進派平和維持努力認識させないようしていた。...バーナード慎重な証言貧弱な証拠作り上げたことは同じくらい危険だったと言っている。歴史家G・Bウォーデンは、バーナードあからさまにロンドン軍隊要請するようなことはしないようにしていたが、その誇張され証言が、それを必要としているこを強く示唆していた、と主張している。1767年秋、バーナードボストンでいつか暴動が起こる可能性について警告し、また1768年騒動については「確かにヒルズボロ卿には、ボストン服従を強いるには軍隊唯一の方法であるという印象与えた大げさ報告をしていた。ウォーデンは、ボストンの他の重要な役人が、ロンドン宛てて同じようヒステリー状態」について文書送っていたことにも注目している。1768年10月には4,000名のイギリス軍ボストン到着し、さらに緊張感高めたバーナード地元新聞けなされイギリス大臣状況誤解させる文書送った非難された。それらの文書公開するよう申し立て受けたが、それを拒否したロンドン反対派代理人がその文書幾らか取得でき、1769年4月にはボストンの「自由の息子達」のもとに届けられた。それらの文書直ぐに急進派の「ボストン・ガゼット」で掲載され総督評議会審議結果載せられた。特に1つ文書は、マサチューセッツ憲章変更し評議会依存度を増すことで総督権限強化することをバーナード要求していたので、特に厳し取り扱いを受ける対象となった議会は「彼を永遠に植民地総督の座から排除すること」を正式に要求することとなったバーナードロンドン呼び戻され副総督ハッチンソン総督代行となったバーナード8月1日ボストン離れたとき、町は即座に祝い祭り行い、自由の木を飾りつけ教会の鐘鳴らしたバーナードマサチューセッツでの業績には、ハーバード大学のハーバード・ホールの設計や、現ボストン市内ジャマイカ・プレーンのポンド通り夏の家建設があった。

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マサチューセッツ湾直轄植民地総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:29 UTC 版)

トマス・ハッチンソン」の記事における「マサチューセッツ湾直轄植民地総督」の解説

印紙法に関する議論があったので、1766年には急進派植民地議会総督評議会支配するようになり、ハッチンソン総督評議員罷免された。1767年タウンゼンド諸法成立した後の騒動が増す中で、バーナード総督イギリス役人を守るためにイギリス軍要請し受け入れた植民地の状態を叙述したバーナードの手紙が急進反対派によって奪われ出版されて、そのリコール結び付いたバーナード1769年8月1日イングランド向けて出発しハッチンソン総督代行となったハッチンソン不人気なバーナード政権距離を置くようにしていたが成功せず議会地元新聞からの攻撃続いたそれにも拘わらず総督として正式に指名されることを求めて働きかけ続けた別の総督の下で副総督として仕えることを断固拒否し、他の地位与えられるか、副総督辞任する道を好んだ1770年3月5日タウンゼンド諸税に対す抗議ボストン虐殺事件生んだ時、ハッチンソン依然として総督代行のままだった。この事件ではイギリス兵が群衆発砲し、5人を殺していた。ハッチンソン事件の後現場行き公平な裁判が行われることを約束した翌日事件に関わったイギリス全員逮捕させたが、市内続いていた不安のために、イギリス兵は市内出てキャッスル・ウィリアム撤退することを要請せざるをえなかった。ハッチンソン民衆怒りが収まるのを待ちアダムズには勝機のある裁判備えさせるために、裁判を6か月延期させることができた。兵士達裁判掛けられ2人殺人罪有罪となったが、その量刑減刑となった。この事件は、植民地事態処する能力に関してハッチンソン自信衝撃与え辞表書いたこの間バーナード総督ロンドンハッチンソン肩を持っていた。1771年3月国王承認しハッチンソン総督任命する書類ボストン到着したが、それはハッチンソン辞表行き違いになっていた(植民地担当大臣ヒルズボロ伯爵ウィルズ・ヒルはその辞表受け取り拒否した)。その任命と共に送られてきた指示書はかなり厳格な内容であり、ハッチンソン政治的に操作できる余地がほとんど無かったサミュエル・アダムズを特に苛立たせた指示は、総督評議会開催制限することと、総督承認得た個人植民地代理人指名する時の制限だった。 ハッチンソン受けた指示1つは、植民地議会ボストンからケンブリッジに移すことだった。ケンブリッジならば急進的なボストン政治の影響をあまり受けない可能性があった。この中庸な要求行政命令実行され、それが議会における総督裁量に関する苦情の山となり、ハッチンソン議会の間で議論反論再反論応酬となって議事録数千ページとなり、1772年まで続いた。この件の性格急進派助長し、その主導者ハッチンソン行動を、行政特権拡大しようとする大胆かつ不正の試みだと主張した1772年ハッチンソンが、それまで議会割り当てることになっていた自分給与イギリスから払われることになると宣言した時に急進派怒り燃え上がった。このことは植民地正当に属す権限簒奪だと見られた。議会との文書による議論は、統治政策に関してイギリス議会役割にまで及び、議会ハッチンソンの間の亀裂をさらに深めることになった植民地イングランドあちこち反旗上がり傍観者から見ると、ハッチンソン論点植民地中道者も政治的な強硬派加担させることになっていたとしていた。

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