マサチューセッツ湾直轄植民地総督
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「フランシス・バーナード (初代準男爵)」の記事における「マサチューセッツ湾直轄植民地総督」の解説
バーナードは植民地管理部とのコネで影響力を持っていたが、1759年遅くにマサチューセッツ湾直轄植民地総督に指名された。通信の遅れと移動の鈍さのために、バーナードがボストンに到着したのは1760年8月2日になってからだった。当初は暖かく迎えられたが、マサチューセッツにおけるその任務は難しいものになった。王室指名の役人(政府と税関の役人を含む)が、航海法に違反して捕まえられた船から利益の分け前を得ていたこともあり、航海法を積極的に強制しようとした。これら捕獲に関する法的手続きは、王室が指名した判事の前で、陪審員の居ない海事裁判所で審問されることとなり、極めて不人気だった。バーナードは副総督のトマス・ハッチンソンを植民地の最高裁判所首席判事に指名することで、いきなりジェイムズ・オーティス・ジュニアと敵対した。その首席判事の地位は、それ以前の総督数人によって、オーティスの父に約束されていたものだった。オーティス・ジュニアはその裏切りに動揺し、海事裁判所の法務官の地位(王室の代表、総督の検察官に相当)を辞任し、その代わりに商人がその船舶を防衛するために弁論することに(時には無報酬で)奉じた。バーナードが就任して初期のこの行動は、イギリスの植民地政策に反対する「人民党」(オーティスが率いた)と、それを支持する「王室党」(ハッチンソンが率いた)との間に明確な線を引くことになった。 1760年後半、イギリス王ジョージ2世の死去に伴い、税関の収税吏に援助令状を再発行することが必要となり、バーナードの難しさが複雑になった。これら令状は基本的に制約の無い捜索令状であり、法的に議論のあるものであり、大変不人気だったので、後のアメリカ合衆国憲法では明確に禁止されることになったものだった。ハッチンソンが首席判事として最初に行ったことがこの令状の承認であり、その人気が無くなった。その令状がイギリス臣民の権利に違背していると主張したオーティスが人気を得ることになった。1761年5月には植民地議会議員に選出され、そこでバーナードの政策に対して攻撃を続ける立場になった。1761年、議会の会期で、オーティスはマウントデザート島(現メイン州)のバーナードへの寄贈を画策し、税関による押収からバーナードの注意を逸らす策略に部分的に成功した。 オー、バーナード! お前の悪事は我々の自由と平和を破壊するように仕組まれている大衆の目は注意深くお前の努力を見ており、我々の安心を凝視してきた — Anonymous pamphlet, 1769 バーナードの不人気は、1763年の砂糖法や1765年の印紙法など他の課税関連諸法を通じて続いた。この両法が成立して抗議行動が起こる中、印紙法に対する反応で街中で暴動が起こり、また植民地内の多くの派閥が総督に対抗して統合された。1767年、イギリスの議会でタウンゼンド諸法が成立し、各植民地では再度抗議の嵐が起こった。マサチューセッツでは植民地議会が、他の植民地に送る回状を発行し、タウンゼンド諸法で課税される商品のボイコットに加わるよう呼びかけた。1768年4月、バーナードは、当時創設されたばかりの植民地担当大臣に指名されたヒルズボロ伯爵ウィルズ・ヒルから、回状の回収が出来ないのであれば、議会を解散するよう命令された。議会がこれを拒み、バーナードは7月に議会を解散した。 アメリカ独立戦争に関する歴史家ポーリン・メイアーは、バーナードがロンドンに送った手紙がイギリスの役人に大きな影響を与えたが、それらは現実を「歪めて」しまったと言っている。「派閥」が例えば反対のための主要な手段として暴力を取り入れたという誤った説得が、急進派の平和維持努力と認識させないようしていた。...バーナードの慎重な証言が貧弱な証拠を作り上げたことは同じくらい危険だった、と言っている。歴史家のG・B・ウォーデンは、バーナードがあからさまにロンドンに軍隊を要請するようなことはしないようにしていたが、その誇張された証言が、それを必要としているこを強く示唆していた、と主張している。1767年秋、バーナードはボストンでいつか暴動が起こる可能性について警告し、また1768年の騒動については「確かにヒルズボロ卿には、ボストンで服従を強いるには軍隊が唯一の方法であるという印象を与えた」大げさな報告をしていた。ウォーデンは、ボストンの他の重要な役人が、ロンドンに宛てて「同じようなヒステリー状態」について文書を送っていたことにも注目している。1768年10月には4,000名のイギリス軍がボストンに到着し、さらに緊張感を高めた。バーナードは地元の新聞でけなされ、イギリスの大臣に状況を誤解させる文書を送ったと非難された。それらの文書を公開するよう申し立てを受けたが、それを拒否した。ロンドンの反対派の代理人がその文書の幾らかを取得でき、1769年4月にはボストンの「自由の息子達」のもとに届けられた。それらの文書は直ぐに、急進派の「ボストン・ガゼット」で掲載され、総督評議会の審議結果も載せられた。特に1つの文書は、マサチューセッツの憲章を変更し、評議会の依存度を増すことで総督の権限を強化することをバーナードが要求していたので、特に厳しい取り扱いを受ける対象となった。議会は「彼を永遠に植民地総督の座から排除すること」を正式に要求することとなった。バーナードはロンドンに呼び戻され、副総督のハッチンソンが総督代行となった。バーナードが8月1日にボストンを離れたとき、町は即座に祝いの祭りを行い、自由の木を飾りつけ、教会の鐘を鳴らした。 バーナードのマサチューセッツでの業績には、ハーバード大学のハーバード・ホールの設計や、現ボストン市内ジャマイカ・プレーンのポンド通り夏の家の建設があった。
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マサチューセッツ湾直轄植民地総督
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「トマス・ハッチンソン」の記事における「マサチューセッツ湾直轄植民地総督」の解説
印紙法に関する議論があったので、1766年には急進派が植民地議会も総督評議会も支配するようになり、ハッチンソンは総督評議員を罷免された。1767年にタウンゼンド諸法が成立した後の騒動が増す中で、バーナード総督はイギリスの役人を守るためにイギリス軍を要請し受け入れた。植民地の状態を叙述したバーナードの手紙が急進反対派によって奪われ、出版されて、そのリコールに結び付いた。バーナードは1769年8月1日にイングランドに向けて出発し、ハッチンソンが総督代行となった。ハッチンソンは不人気なバーナード政権と距離を置くようにしていたが成功せず、議会や地元新聞からの攻撃が続いた。それにも拘わらず、総督として正式に指名されることを求めて働きかけを続けた。別の総督の下で副総督として仕えることを断固拒否し、他の地位を与えられるか、副総督を辞任する道を好んだ。 1770年3月5日、タウンゼンド諸税に対する抗議がボストン虐殺事件を生んだ時、ハッチンソンは依然として総督代行のままだった。この事件ではイギリス兵が群衆に発砲し、5人を殺していた。ハッチンソンは事件の後で現場に行き、公平な裁判が行われることを約束した。翌日、事件に関わったイギリス兵全員を逮捕させたが、市内で続いていた不安のために、イギリス兵は市内を出てキャッスル・ウィリアムに撤退することを要請せざるをえなかった。ハッチンソンは民衆の怒りが収まるのを待ち、アダムズには勝機のある裁判に備えさせるために、裁判を6か月間延期させることができた。兵士達が裁判に掛けられ、2人は殺人罪で有罪となったが、その量刑は減刑となった。この事件は、植民地で事態を処する能力に関してハッチンソンの自信に衝撃を与え、辞表を書いた。 この間、バーナード総督はロンドンでハッチンソンの肩を持っていた。1771年3月、国王が承認し、ハッチンソンを総督に任命する書類がボストンに到着したが、それはハッチンソンの辞表と行き違いになっていた(植民地担当大臣のヒルズボロ伯爵ウィルズ・ヒルはその辞表受け取りを拒否した)。その任命書と共に送られてきた指示書はかなり厳格な内容であり、ハッチンソンが政治的に操作できる余地がほとんど無かった。サミュエル・アダムズを特に苛立たせた指示は、総督評議会の開催を制限することと、総督の承認を得た個人に植民地代理人を指名する時の制限だった。 ハッチンソンが受けた指示の1つは、植民地議会をボストンからケンブリッジに移すことだった。ケンブリッジならば急進的なボストンの政治の影響をあまり受けない可能性があった。この中庸な要求は行政命令で実行され、それが議会における総督裁量に関する苦情の山となり、ハッチンソンと議会の間で議論、反論、再反論の応酬となって、議事録が数千ページとなり、1772年まで続いた。この件の性格が急進派を助長し、その主導者はハッチンソンの行動を、行政特権を拡大しようとする大胆かつ不正の試みだと主張した。1772年、ハッチンソンが、それまで議会が割り当てることになっていた自分の給与がイギリスから払われることになると宣言した時に、急進派の怒りが燃え上がった。このことは植民地に正当に属する権限の簒奪だと見られた。議会との文書による議論は、統治政策に関してイギリス議会の役割にまで及び、議会とハッチンソンの間の亀裂をさらに深めることになった。植民地やイングランドのあちこちで反旗が上がり、傍観者から見ると、ハッチンソンの論点が植民地の中道者も政治的な強硬派に加担させることになっていたとしていた。
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