キャッスル・ウィリアム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/18 17:48 UTC 版)
「フォート・インディペンデンス (マサチューセッツ州)」の記事における「キャッスル・ウィリアム」の解説
1634年以降、キャッスル・アイランドは様々な要塞の地となっていた。最初の砦はドーチェスターのロジャー・ラドロウ副知事とジョン・メイソン大佐により設計および監督され、土製の砦内の大砲が海からの攻撃からボストンの植民地を守っていた。1634年、最初の司令官にニコラス・シンプキンス大佐が就いた。直後に最初の砦は修復不可能なほど崩壊し、1640年代、主に木製の砦が再建された。当時、セーカー砲が6台と、より小さな銃が3台あった。1645年、リチャード・デヴンポート大佐が司令官となったが、1665年、砦にいる時に雷に打たれ亡くなった。1665年から1686年、ロジャー・クラップ大佐が司令官を継いだ。1701年、木製の砦は取り壊され、レンガの砦に建て替えられた。この砦はアメリカの植民地のイギリス軍所属の主任技術士ウォルフガング・ウィリアム・ロマーが設計した。以前は「ザ・キャッスル」と呼ばれていたが、1701年により大きな砦に建て替えられてからウィリアム3世に因み「キャッスル・ウィリアム」と呼ばれるようになった。 アメリカ合衆国の独立の数年前、ボストンの情勢不安からキャッスル・ウィリアムはイギリス高官の避難所となっていた。1765年の印紙法や1770年のボストン虐殺事件などが地方のリーダーやイギリス兵らを脅かしていたのである。 1775年、独立運動が勃発し、アメリカ軍はすぐにボストン包囲戦を開始し、イギリス軍はキャッスル・ウィリアムを主要な要塞として占拠した。しかしジョージ・ワシントン率いる大陸軍がドーチェスター高地の要塞化を進めたためキャッスル・ウィリアムは脅かされ、1776年3月、イギリス軍は砦に火を放ち崩壊させてボストンから撤退した。
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