ボストンの情勢不安
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「タウンゼンド諸法」の記事における「ボストンの情勢不安」の解説
ボストンは、新設されたアメリカ関税局の本部が置かれたため、タウンゼンド諸法がもっとも厳密に施行された。ボストンにおける諸法に対するあまりに厳しい風当たりに、関税局は海軍の支援を要請した。海軍准将サミュエル・フッドは50門艦《ロムニー》の派遣をもってこれに応じ、1768年5月、同艦がボストン港に到着した。 1768年6月10日、ボストンの有力商人ジョン・ハンコックが所有する《リバティ》というスループ船が、密貿易に関わっている疑いありとして税関職員に抑留された。地元船員を徴発していく《ロムニー》の船長に以前から怒りを募らせていたボストン市民は、ここにきてついに暴動を起こした。税関職員は安全のためにウィリアム砦に退避した。起訴されたハンコックに対する副海事裁判での審理は、ジョン・アダムズが弁護に立ち、衆目を集めたが、結局、この訴えは取り下げられた。 マサチューセッツの不安定な情勢を見たヒルは、現地総督バーナードに、ボストンにおける大逆罪の証拠を見つけるように指示した。1543年の大逆法(Treason Act 1543)は依然有効と議決されており、これを適用することによって、大逆罪の審理を行うためにボストン市民をイギリス本国へ連行することができると見たのである。だがバーナードはその証拠を提出することを望むような人物を探し出すことができず、大逆罪の審理は行われなかった。アメリカの入植者が逮捕され、審理のためイギリス本国に身柄を送られるという可能性は、各植民地で警戒と怒りを巻きおこした。 そもそも《リバティ》事件以前の段階で、ヒルはボストンへの軍隊派遣を決定していた。事件2日前の1768年6月8日、それが「予測困難な結果」をもたらす可能性があることは認めながらも、在北米英軍総司令官トマス・ゲイジに対して「貴官から見てボストンに必要と思われる戦力」を送るように指示している。ヒルとしては1個連隊の派兵をゲイジに示唆したのだが、《リバティ》事件発生を受け、関係筋はそれでは不足であると確信した。 1768年9月、マサチューセッツの人々は自分たちに対して軍隊が差し向けられたという情報を得た。サミュエル・アダムズは超法規的な市議会を緊急招集し、切迫するボストン占拠に反対する決議を成立させたが、1768年10月1日、イギリス陸軍4個連隊の第一部隊がボストンへの上陸を開始し、関税局はボストンに復帰した。『ジャーナル・オブ・オカーレンス』という匿名記者による新聞連載は、誇張されている部分があると見られているものの、ボストンが軍に占拠されていた期間に起きた市民と軍との衝突を年代記風の記事にしている。緊張が一気に高まったのは、1770年2月22日、クリストファー・セイダーという未成年が税関職員によって殺害されるという事件後である。イギリス軍はこの事件には関与していなかったが、占領軍に対する憤りは日を追うごとにエスカレートし、1770年3月5日、いわゆるボストン虐殺事件で5人の市民が殺害されるに至る。事件後、軍はウィリアム砦へと撤収した。
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