ボストンへの帰還とフレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:17 UTC 版)
「ウィリアム・シャーリー」の記事における「ボストンへの帰還とフレンチ・インディアン戦争」の解説
アメリカ植民地の批判を切り抜けた後、シャーリーは1750年にパリの和平会議に派遣された。この会議は英仏双方の強硬派が仕切っており、シャーリーは、ニューイングランドとヌーベルフランスの境界論争を決定することができず、1752年にロンドンに戻った。パリで、住んでいた家の大家の娘と結婚した。彼女は一部のシャーリーの子供たちよりも年下だった。シャーリーは新しい総督の職を探したものの、1753年にマサチューセッツに戻った。妻はイギリスに残して来た。マサチューセッツにおけるシャーリーへの反感は、彼がイギリスとパリにいる間に静まっていた。その後すぐシャーリーは、ヌーベルフランスとの境界で起こる紛争の増加に対応するために、メインへの遠征を計画した。1755年、エドワード・ブラドック将軍のもと2つの連隊がアメリカに派遣され、ブラドックはシャーリーを副指揮官に任命して、ナイアガラ砦の攻撃を命じ、一方ブラドックはデュケーヌ砦攻略に向かった。しかしシャーリーのこの作戦は失敗に終わった。このため任務を解かれ、反逆行為と無能力の責を問われるべく、イギリスへ戻った。 詳細は「フレンチ・インディアン戦争」を参照 1755年7月13日にブラドックが戦死した、この時、シャーリーの息子のウィリアムもともに戦死している。シャーリーはマサチューセッツ総督に加えて、イギリス軍の臨時の指揮官でもあった。この時、彼の部隊は、アカディア人の追放でチャールズ・ローレンスの支援に回っていた。これは、1万2千人以上のアカディア人の、ノバスコシアからの強制退去であった。アカディア人を乗せた船の何隻かが、1755年12月の始めにボストンに入港したが、シャーリーは彼らに上陸させないように命じた。冬が過ぎ、3か月たった3月までアカディア人たちは船に乗せられたままで、寒さと栄養失調で半分が死んだ。
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