ボストンの知識人たちの中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/22 12:32 UTC 版)
「アドルフ・ドゥエイ」の記事における「ボストンの知識人たちの中で」の解説
ドゥエイは北部のマサチューセッツ州のボストンに移り、ここで「幸せな4年間」を過ごす。現地の進歩主義協会やドイツ系移民の体操協会にも参加し、ニューイングランドの社会にも溶け込もうとした。この時期、シラーの生誕100年祭を催したり、1859年5月6日亡くなったアレクサンダー・フォン・フンボルトの追悼祭を催したりしている。 また、評論家のチャールズ・A・ダナ(en:Charles Anderson Dana)とジョージ・リプレー(en:George Ripley (transcendentalist))によるニュー・アメリカン・サイクロペディアの「ドイツ語文法」という大項目の編集を手伝ったり、短期間ではあるが、パーキンス盲学校でも教鞭をとった。また懸賞小説への応募で、"Fata Margana" (蜃気楼)というテキサスにやってきたドイツ系移民の物語を書き、1858年セントルイスで出版されたが、不評に終わった。 彼はここでもまた学校を設立した。それは1859年のフレーベルのモデルにならったもので、おそらくアメリカ合衆国で最初の誰にでも開かれた幼稚園とされている。これは彼により設立された労働組合の支援によるものである。但し、マルガレーテ・シュルツが、1856年に彼女の自宅で最初の私立の幼稚園を開設している。彼女は、1859年にエリザベス・ピーボディと知り合い、彼女にフレーベルの教育思想と幼稚園について指導している。一方、ドゥエイはこの時期、ドイツ系の教員養成大学の設立計画やその他の教育改革に手を染めていて、幼稚園にはあまり時間を割いていなかった。ドゥエイは共和党に入党し、ドイツ系入植者を共和党に勧誘するため全国を旅していた。
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