マサチューセッツ湾植民地時代 1629年-1686年
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「マサチューセッツ州の歴史」の記事における「マサチューセッツ湾植民地時代 1629年-1686年」の解説
清教徒はイギリスでの迫害を逃れるために、新世界に向かう前にオランダに渡った。オランダで一度は受け入れられたが、50年以内に離れることになった。オランダ人の生活態度における自由主義と開放性は清教徒にとっては恐怖であった。オランダで育った子供は清教徒というよりもオランダ人になっていたので、清教徒は新世界に向かうことにした。 イギリスのテムズ川地域から来た清教徒はマサチューセッツ湾植民地を造った。この植民地が人口でも経済力でもプリマスを凌いだ。これにはボストンという良港があったことが大きく寄与していた。1642年にイギリスで清教徒革命が起こったとき、マサチューセッツ湾植民地は清教徒の強い地盤となった。 インディアンとの関係はこの頃も良好であった。1646年、長期議会によってジョン・エリオットにワンパノアグ族に布教する役割と資金が与えられた。エリオットは多くの者を改宗させることに成功した。植民地政府は改宗したインディアンの集落をボストンの周りに環状に造らせることで防衛的戦略にも利用した。改宗したインディアンは「祈るインディアン」と呼ばれた。彼らの集落としてネイティックが1651年に造られた。 清教徒は信仰的潔白さを保つためにマサチューセッツに来たのであり、他の宗教に対しては寛容ではなかった。ピルグリム・ファーザーズ、イギリス聖公会、クエーカー教徒など他の多くの宗派の者は不承不承ではあるが、しばらくは清教徒の社会に受け入れられた。その後クエーカーが禁止され、1660年には4名のクエーカー教徒がボストンコモンで絞首刑にされた(メアリ・ダイアーを参照)。アン・ハッチンソン、ロジャー・ウィリアムズおよびトマス・フッカーのような非国教徒は、清教徒が宗教的寛容さに欠けているためにマサチューセッツを離れた。ウィリアムズはロードアイランド植民地を、フッカーはコネチカット植民地をそれぞれ設立した。 民族間の対立は、初期植民地時代では最も血腥いインディアン戦争と言われるフィリップ王戦争(1675-76)に発展した。パイオニア渓谷やプリマス植民地で大きな軍事行動があった。1670年代初めに、マサチューセッツは一般的な植民地の習慣である奴隷制を採用した。これでは非白人奴隷に限って持つことが認められた。一廉の家ならば料理人か執事に一人以上の奴隷を所有することが流行になった。
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