マサチューセッツ政府とは? わかりやすく解説

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マサチューセッツ政府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 08:21 UTC 版)

ジェイムズ・ボーディン」の記事における「マサチューセッツ政府」の解説

1774年、ボーディンは第一次大陸会議代議員指名されたが、妻エリザベスの健康が優れないことを理由出席しなかった。妻の病気は恐らく肺結核であり、ボーディンにも影響していた。ボーディンはアメリカ独立戦争勃発した1775年にも病を患いイギリス軍占領するボストン家族ごとに離れ地域民兵隊が包囲していた)、まずドーチェスターに、最後はミドルボロに落ち着き、そこに1778年まで住んだ(ボーディンのビーコン通りにあった邸宅は、イギリス軍ジョン・バーゴイン将軍占有していた)。ボーディンは病後回復期にあったが、ボストンその周辺起き出来事について知らされ続けており、マサチューセッツ植民地会議執行委員会議長選出された。1777年まで務めたこの地位は、事実上マサチューセッツ邦政府の長ということになった。ボーディンは健康状態思わしくないことを挙げて、その職を辞し公衆の前から姿を隠した。ボーディンは他の独立推進者との文通継続しており、その信頼得ていたが、戦争遂行現場に居なかったことで、後に政治的に難し立場になった1778年には公的生活戻り始め1779年マサチューセッツ邦が独自の憲法起草したときは、それを定めるために招集され会議の議長務め憲法案を起草した委員会委員長務めた。この委員会委員だったジョン・アダムズマサチューセッツ憲法書いた者と一般に認められているが、ボーディンとサミュエル・アダムズそこそこ貢献果たした1780年開催され最初州知事選挙では、ボーディンもジョン・ハンコック対抗して出馬した。この時は正式な政党というものが無く選挙個性人気愛国心比較だった。ハンコック大きな人気があり、第二次大陸会議個人的に献身し指導してきたという疑いも無い愛国心があった。ボーディンはハンコック支持者から、第一次大陸会議欠席した(ボーディン自身病気という理由があっても)ということを特に取り上げ愛国的ではないと批判された。ボーディンの支持者マサチューセッツ海岸社会から商業的な利益を十分得ている者達であり、ハンコックのことを人民迎合する気取り屋扇動政治家攻撃したハンコック投票総数90%以上の支持集め大勝したマサチューセッツ州議会はボーディンに副知事あるいは上院議員どちらか提案したが、ボーディンは健康が優れないことを理由どちらも辞退した。この選挙後ハンコックはボーディンを州法改定統合する委員指名したその後の選挙でもボーディンは何度もハンコック対抗して出馬したが、ハンコック巨大な人気には勝てなかった。この二人争いは、事業政治宗教にまで広がる長く続いた競争意識の1要素であり、個人的な敵対意識深く根ざしていた。二人ともハーバード大学管理関わり、その確執時には醜いものになった例え1776年ハンコック大学財務官第二次大陸会議議長同時に兼ねているとき、ボーディンが主宰し委員会が、ハンコックが自ら保持している証券戦争故に危険であると判断し代議員フィラデルフィア派遣して、その計算書受け取り証券そのもの保護したハンコックの遅れがちな反応と、計算書作成するのを拒んだことで、数年間も引きずることになり、その結果ボーディンはハーバード大学監視委員会の問責決議引き出すことになった。この件は1783年ハンコック主宰している公開集会大学問題読み上げられ議論されたときに、最頂点達した。ボーディンもハンコックもブラトル通り教会の礼拝出席しており、そこでは彼らが金を出して教会建物加えた改善大きさや質について(新しいものの場所であっても競い合った同時代政治家ジェイムズ・ウォーレンは二人違いについて把握し、「私は彼らのどちらの感情羨んだりしない一人空虚さは、それが失望させられるものであれば毒蛇のようにだますであろうし、他方による進歩成功しないならば、その「謙譲な」誇りを傷つけるだろう」と指摘していた。この二人競争関係は激しいものだったので、ボーディンの名前を採ったボーディン大学の設立も、ハンコック死後にまで伸びた1785年マサチューセッツ州西部経済不況関わり不安定な要素があることを感じ取ったハンコックは、その職に留まる事を求められる予測しながら、辞任申し出た。しかし、議会慰留しようとはせず、ハンコックは健康悪化理由本当に辞任してしまった。その年の州知事選挙は、ボーディン、ハンコック政策継ぐ者見られたが、カリスマ性はなかった副知事トマス・クッシング独立戦争時の将軍ベンジャミン・リンカーン競った当時選挙運動扱いくいものだった。ボーディンとサミュエル・アダムズは、ハンコッククッシングの採った戦法倣い最近設立され地元では議論のある社交クラブ(「サンスーシ」あるいは「ティ・アセンブリー」と呼ばれた)を掌握した。そこではトランプ遊びダンスが行われ(これらの活動社会的に保守的なボストンでは以前禁じられていた)、ハンコック任期中には道徳的頽廃の印と見られた。クッシング支持者は、ボーディンを戦争中臆病だった非難し1780年副知事就任拒否することで民衆侮辱したと言った選挙人誰にも過半数与えられず、議会厳し分裂投票によって最終的にボーディンを知事に選ぶことで決着した

※この「マサチューセッツ政府」の解説は、「ジェイムズ・ボーディン」の解説の一部です。
「マサチューセッツ政府」を含む「ジェイムズ・ボーディン」の記事については、「ジェイムズ・ボーディン」の概要を参照ください。

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