マサチューセッツ政府
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「ジェイムズ・ボーディン」の記事における「マサチューセッツ政府」の解説
1774年、ボーディンは第一次大陸会議の代議員に指名されたが、妻エリザベスの健康が優れないことを理由に出席しなかった。妻の病気は恐らく肺結核であり、ボーディンにも影響していた。ボーディンはアメリカ独立戦争が勃発した1775年にも病を患い、イギリス軍が占領するボストンを家族ごとに離れ(地域の民兵隊が包囲していた)、まずドーチェスターに、最後はミドルボロに落ち着き、そこに1778年まで住んだ(ボーディンのビーコン通りにあった邸宅は、イギリス軍のジョン・バーゴイン将軍が占有していた)。ボーディンは病後の回復期にあったが、ボストンとその周辺で起きる出来事について知らされ続けており、マサチューセッツ植民地会議の執行委員会議長に選出された。1777年まで務めたこの地位は、事実上マサチューセッツ邦政府の長ということになった。ボーディンは健康状態が思わしくないことを挙げて、その職を辞し、公衆の前から姿を隠した。ボーディンは他の独立推進者との文通を継続しており、その信頼を得ていたが、戦争遂行の現場に居なかったことで、後に政治的に難しい立場になった。1778年には公的生活に戻り始め、1779年にマサチューセッツ邦が独自の憲法を起草したときは、それを定めるために招集された会議の議長を務め、憲法案を起草した委員会の委員長を務めた。この委員会の委員だったジョン・アダムズがマサチューセッツ憲法を書いた者と一般に認められているが、ボーディンとサミュエル・アダムズもそこそこの貢献を果たした。 1780年に開催された最初の州知事選挙では、ボーディンもジョン・ハンコックに対抗して出馬した。この時は正式な政党というものが無く、選挙は個性、人気、愛国心の比較だった。ハンコックは大きな人気があり、第二次大陸会議に個人的に献身し、指導してきたという疑いも無い愛国心があった。ボーディンはハンコックの支持者から、第一次大陸会議に欠席した(ボーディン自身の病気という理由があっても)ということを特に取り上げ、愛国的ではないと批判された。ボーディンの支持者はマサチューセッツの海岸社会から商業的な利益を十分得ている者達であり、ハンコックのことを人民に迎合する気取り屋の扇動政治家と攻撃した。ハンコックが投票総数の90%以上の支持を集め、大勝した。マサチューセッツ州議会はボーディンに副知事あるいは上院議員のどちらかと提案したが、ボーディンは健康が優れないことを理由にどちらも辞退した。この選挙後、ハンコックはボーディンを州法を改定し統合する委員に指名した。 その後の選挙でもボーディンは何度もハンコックに対抗して出馬したが、ハンコックの巨大な人気には勝てなかった。この二人の争いは、事業、政治、宗教にまで広がる長く続いた競争意識の1要素であり、個人的な敵対意識に深く根ざしていた。二人ともにハーバード大学の管理に関わり、その確執が時には醜いものになった。例えば1776年、ハンコックが大学の財務官と第二次大陸会議の議長を同時に兼ねているとき、ボーディンが主宰した委員会が、ハンコックが自ら保持している証券が戦争故に危険であると判断し、代議員をフィラデルフィアに派遣して、その計算書を受け取り、証券そのものを保護した。ハンコックの遅れがちな反応と、計算書を作成するのを拒んだことで、数年間も引きずることになり、その結果ボーディンはハーバード大学監視委員会の問責決議を引き出すことになった。この件は1783年にハンコックが主宰している公開集会で大学の問題が読み上げられ議論されたときに、最頂点に達した。ボーディンもハンコックもブラトル通り教会の礼拝に出席しており、そこでは彼らが金を出して教会の建物に加えた改善の大きさや質について(新しいものの場所であっても)競い合った。同時代の政治家ジェイムズ・ウォーレンは二人の違いについて把握し、「私は彼らのどちらの感情も羨んだりしない。一人の空虚さは、それが失望させられるものであれば毒蛇のようにだますであろうし、他方による進歩が成功しないならば、その「謙譲な」誇りを傷つけるだろう」と指摘していた。この二人の競争関係は激しいものだったので、ボーディンの名前を採ったボーディン大学の設立も、ハンコックの死後にまで伸びた。 1785年、マサチューセッツ州西部で経済不況に関わり不安定な要素があることを感じ取ったハンコックは、その職に留まる事を求められると予測しながら、辞任を申し出た。しかし、議会は慰留しようとはせず、ハンコックは健康悪化を理由に本当に辞任してしまった。その年の州知事選挙は、ボーディン、ハンコックの政策を継ぐ者と見られたが、カリスマ性はなかった副知事のトマス・クッシング、独立戦争時の将軍ベンジャミン・リンカーンが競った。当時の選挙運動は扱いにくいものだった。ボーディンとサミュエル・アダムズは、ハンコックとクッシングの採った戦法に倣い、最近設立され地元では議論のある社交クラブ(「サンスーシ」あるいは「ティ・アセンブリー」と呼ばれた)を掌握した。そこではトランプ遊びやダンスが行われ(これらの活動は社会的に保守的なボストンでは以前に禁じられていた)、ハンコックの任期中には道徳的頽廃の印と見られた。クッシングの支持者は、ボーディンを戦争中に臆病だったと非難し1780年に副知事就任を拒否することで民衆を侮辱したと言った。選挙人は誰にも過半数を与えられず、議会が厳しい分裂投票によって最終的にボーディンを知事に選ぶことで決着した。
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