ジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵)の意味・解説 

ジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/08 07:47 UTC 版)

初代アシュバートン男爵
ジョン・ダニング
John Dunning
1st Baron Ashburton
生年月日 1731年10月18日
出生地 グレートブリテン王国イングランドデヴォン州アシュバートン英語版
没年月日 (1783-08-18) 1783年8月18日(51歳没)
出身校 ミドルテンプル
前職 法廷弁護士
所属政党 ホイッグ党
称号 初代アシュバートン男爵枢密顧問官(PC)
配偶者 エリザベス(旧姓ベアリング)

内閣 第二次ロッキンガム侯内閣、シェルバーン伯内閣、第一次ポートランド公内閣
在任期間 1782年4月17日 - 1783年8月18日

庶民院議員
選挙区 カーン選挙区英語版
在任期間 1768年3月 - 1782年4月8日

貴族院議員
在任期間 1782年4月8日 - 1783年8月18日
テンプレートを表示

初代アシュバートン男爵ジョン・ダニング: John Dunning, 1st Baron Ashburton1731年10月18日 - 1783年8月18日)は、イギリスの政治家・貴族。

1780年4月に王権の議会への影響力行使の削減を求めるダニング動議を提出したことで知られる。姓はダニングの他[1]、ダンニングとも表記される[2]

経歴

生い立ちと政界入りまで

1731年10月18日、ジョン・ダニングとその妻エリザベス(旧姓ジュドシャム)の間の子としてデヴォン州アシュバートン英語版に生まれる[3][4]

アシュバートンのグラマースクールを卒業した後、ミドルテンプルへ進学し、法廷弁護士資格を取得。1765年のリーチ・V・マネー(Leach v. Money)事件における一般逮捕状の合法性を巡る訴訟で優秀な弁護士として名を馳せた[3][4]

野党議員

1768年3月の総選挙でカーン選挙区英語版から選出されてホイッグ党庶民院議員となった[3][4]1768年6月から1770年1月にかけて初代グラフトン公ヘンリー・フィッツロイ内閣で法務次官英語版を務めた[3][4]

下野後は大ピットの派閥に属し、アメリカ独立を防止するため、ジョージ3世やノース卿フレデリック・ノース内閣による対植民地弾圧政策に反対した。1774年には政府がボストン茶会事件の報復として制定したマサチューセッツ湾植民地の直轄化を定めた「マサチューセッツ政府法英語版」に反対し、その演説の中でダニングは「この条例は『反抗せよ、さすれば汝らの喉首を切らん。黙従せよ。さすれば汝らに課税せん』と言っているのに等しい」と論じた[5]

1778年の大ピット死去後もその派閥を継承した第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティの派閥に属した。1780年4月6日にダニングは「ダニング動議」と呼ばれる以下の動議を提出した[1]

王権の影響力が増してきている。現在も増大中であり、削減されなければならない。本院は本院の英知を示すときに適当と思われる時はいつでも、王室費の支出面およびその他の公費支出の各部面において乱費が行われた場合、それを調査し、是正する権限を有する[6]

このダニング動議は233票対215票で可決された。これを受けて首相ノース卿は総辞職を申し出たが、国王はそれを却下した[6]。しかしその後登院工作という政府の積極的な中立派議員取り込みの多数派工作があり、4月24日にダニングが提出した「請願が受け入れられない限り、議会解散を行うべきではない」とする動議は242対203で否決されている[6][7]。そのため政府に対する決定的打撃にはならなかった[8]

閣僚

アメリカ独立戦争の敗北の影響で1782年2月に「アメリカにおける戦争終結の動議」が可決され、ノース卿内閣は総辞職した。アメリカ独立に前向きな第2代ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワースに組閣の大命を下すべき状況となったが、国王は新内閣がアメリカ独立に前のめりになることを恐れ、大命の条件としてシェルバーン伯派(アメリカ独立反対派)の入閣をロッキンガム侯に認めさせた。こうして成立した第2次ロッキンガム侯内閣にシェルバーン伯は内務大臣、ダニングはランカスター公領大臣として入閣した[9]

1782年3月27日枢密顧問官、同年4月8日にはグレートブリテン貴族爵位デヴォン州におけるアシュバートンのアシュバートン男爵(Baron Ashburton of Ashburton in the county of Devon)に叙され、貴族院議員に転じた[3][4]

ロッキンガム侯の死去後のシェルバーン伯内閣にも留任し、引き続き内閣の法律顧問の役割を果たしたが、貴族院での役割は小さかった。シェルバーン伯退任後も国王の助言者として留任したが、1783年8月18日には死去した[4]。爵位は次男リチャード・ダニング英語版が継承したが、彼は子供を残さずに1823年に死去したため、爵位はそこで廃絶した[4]。現在まで続くアシュバートン男爵位はジョンの妻エリザベス・ベアリングの甥にあたるアレグザンダー・ベアリング1835年に叙されたものである[10]

爵位

1782年4月8日に以下の爵位に叙された[3][4]

家族

1780年3月31日ベアリング財閥の祖ジョン・ベアリング英語版の娘エリザベス・ベアリングと結婚し、彼女との間に2子を儲けた[3][4]

  • 長男ジョン・ダニング (1781-1783)
  • 次男リチャード・ダニング英語版 (1782-1823) - 第2代アシュバートン男爵位を継承

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 213.
  2. ^ 小松春雄 1983, p. 41.
  3. ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “John Dunning, 1st Baron Ashburton” (英語). thepeerage.com. 2016年2月8日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i “Dunning, John” . Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900.
  5. ^ 小松春雄 1983, p. 220.
  6. ^ a b c 小松春雄 1983, p. 264.
  7. ^ 鶴田正治 1977, p. 302.
  8. ^ 小松春雄 1983, p. 265.
  9. ^ 小松春雄 1983, p. 275-283.
  10. ^ Heraldic Media Limited. “Ashburton, Baron (UK, 1835)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年2月8日閲覧。

参考文献

グレートブリテン議会英語版
先代
ジョン・キャルクラフト英語版
トマス・フィッツモーリス英語版
カーン選挙区英語版
選出庶民院議員

1768年 – 1782年
同一選挙区同時当選者
トマス・フィッツモーリス英語版(1768–1774)
イザック・バレー英語版(1774–1782)
次代
ジェイムズ・タウンゼンド英語版
イザック・バレー英語版
公職
先代
初代クラレンドン伯爵
ランカスター公領大臣
1782年 – 1783年
次代
第12代ダービー伯爵
先代
エドワード・ウィリス英語版
法務次官英語版
1768年 – 1770年
次代
エドワード・サーロー
グレートブリテンの爵位
爵位創設 初代アシュバートン男爵
(第1期)

1782年 – 1783年
次代
リチャード・ダニング英語版



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵)」の関連用語

ジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS