野党議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/23 00:38 UTC 版)
「ジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵)」の記事における「野党議員」の解説
1768年3月の総選挙でカルネ選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党の庶民院議員となった。1768年6月から1770年1月にかけて初代グラフトン公ヘンリー・フィッツロイ内閣で法務次官(英語版)を務めた。 下野後は大ピットの派閥に属し、アメリカ独立を防止するため、ジョージ3世やノース卿フレデリック・ノース内閣による対植民地弾圧政策に反対した。1774年には政府がボストン茶会事件の報復として制定したマサチューセッツ湾植民地の直轄化を定めた「マサチューセッツ政府法(英語版)」に反対し、その演説の中でダニングは「この条例は『反抗せよ、さすれば汝らの喉首を切らん。黙従せよ。さすれば汝らに課税せん』と言っているのに等しい」と論じた。 1778年の大ピット死去後もその派閥を継承した第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティの派閥に属した。1780年4月6日にダニングは「ダニング動議」と呼ばれる以下の動議を提出した。 王権の影響力が増してきている。現在も増大中であり、削減されなければならない。本院は本院の英知を示すときに適当と思われる時はいつでも、王室費の支出面およびその他の公費支出の各部面において乱費が行われた場合、それを調査し、是正する権限を有する。 このダニング動議は233票対215票で可決された。これを受けて首相ノース卿は総辞職を申し出たが、国王はそれを却下した。しかしその後登院工作という政府の積極的な中立派議員取り込みの多数派工作があり、4月24日にダニングが提出した「請願が受け入れられない限り、議会解散を行うべきではない」とする動議は242対203で否決されている。そのため政府に対する決定的打撃にはならなかった。
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