マサチューセッツ植民地総督とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > マサチューセッツ植民地総督の意味・解説 

マサチューセッツ植民地総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 06:53 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

マサチューセッツ植民地総督では、のちのアメリカ合衆国マサチューセッツ州のイギリス植民地時代に置かれた総督を一覧で示す。

ポパム植民地 (1607年–1608年)

氏名 就任 退任
ジョージ・ポパム 1607年 1608年2月
ラレ・ギルバート 1608年2月 1608年9月

出典:[1]

プリマス植民地 (1620年–1686年, 1689年–1692年)

氏名 就任 退任 副総督
ジョン・カーヴァー 1620年11月11日 1621年4月15日[2] なし
ウィリアム・ブラッドフォード 1621年5月 1633年1月1日
エドワード・ウィンスロー 1633年1月1日 1634年3月27日
トーマス・プレンス 1634年3月27日 1635年3月3日
ウィリアム・ブラッドフォード 1635年3月3日 1636年3月1日
エドワード・ウィンスロー 1637年3月7日 1636年3月1日
ウィリアム・ブラッドフォード 1637年3月7日 1638年6月5日
トーマス・プレンス 1638年6月5日 1639年6月3日
ウィリアム・ブラッドフォード 1639年6月3日 1644年6月5日
エドワード・ウィンスロー 1644年6月5日 1645年6月4日
ウィリアム・ブラッドフォード 1645年6月4日 1657年5月9日[3]
トーマス・プレンス 1657年6月3日 1673年6月3日
ジョサイア・ウィンスロー 1673年6月3日 1680年12月18日
トーマス・ヒンクリー 1680年12月18日 1686年 ジェームズ・カドワース(1681年 – 1682年)
ウィリアム・ブラッドフォード(1682年 – 1686年)
(ニューイングランド・ドミニオン) 1686年 1689年 なし
トーマス・ヒンクリー 1689年 1692年 ウィリアム・ブラッドフォード(1689年 – 1692年)

出典(特記のないもの):[4]

ウェサグセット植民地 (1622年–1623年)

氏名 就任 退任
リチャード・グリーン 1622年4月 1622年10月
ジョン・サンダース 1622年10月 1623年3月

出典:[5]

ニューイングランド総督 (1623年–1624年)

氏名 就任 退任
ロバート・ゴージェス 1623年9月 1624年

出典:[6]

マサチューセッツ湾植民地 (1629年–1686年, 1689年–1692年)

氏名 就任 退任 副総督
マシュー・クラドック  1628年 1629年10月20日 トーマス・ゴフ
ジョン・エンデコット 1629年4月30日 1630年6月12日[7] なし
ジョン・ウィンスロップ 1629年10月20日 1634年5月14日 ジョン・ハンフリー
トマス・ダドリー
トマス・ダドリー 1634年5月14日 1635年5月6日 ロジャー・ラドロー
ジョン・ヘインズ 1635年5月6日 1636年5月25日 リチャード・ベリンガム
ヘンリー・ベイン 1636年5月25日 1637年5月17日 ジョン・ウィンスロップ
ジョン・ウィンスロップ 1637年5月17日 1640年5月13日 トマス・ダドリー
トマス・ダドリー 1641年6月2日 1640年5月13日 リチャード・ベリンガム
リチャード・ベリンガム 1641年6月2日 1642年5月18日 ジョン・エンデコット
ジョン・ウィンスロップ 1642年5月18日 1644年5月29日 ジョン・エンデコット
ジョン・エンデコット 1644年5月29日 1645年5月14日 ジョン・ウィンスロップ
トマス・ダドリー 1645年5月14日 1646年5月6日 ジョン・ウィンスロップ
ジョン・ウィンスロップ 1646年5月6日 1649年5月2日 トマス・ダドリー
ジョン・エンデコット 1649年5月2日 1650年5月22日 トマス・ダドリー
トマス・ダドリー 1650年5月22日 1651年5月7日 ジョン・エンデコット[8]
ジョン・エンデコット 1651年5月7日 1654年5月3日 トマス・ダドリー
リチャード・ベリンガム 1654年5月3日 1655年5月23日 ジョン・エンデコット
ジョン・エンデコット 1655年5月23日 1665年5月3日 リチャード・ベリンガム
リチャード・ベリンガム 1665年5月3日 1672年12月12日 フランシス・ウィロビー(1665年 – 1671年)
ジョン・レバレット(1671年 - 1672年)
ジョン・レバレット 1672年12月12日
(代理、1673年5月7日まで)
1679年5月28日 サミュエル・シモンズ
サイモン・ブラッドストリート
サイモン・ブラッドストリート 1679年5月28日 1686年5月25日[9] トマス・ダンフォース
(ニューイングランド・ドミニオン) 1686年5月25日[9] 1689年4月18日[10]
サイモン・ブラッドストリート 1689年4月18日[10] 1692年5月14日[11] トマス・ダンフォース

出典(特記のないもの):[12]

ニューイングランド・ドミニオン (1686年–1689年)

氏名 就任 退任 副総督
ジョセフ・ダドリー 1686年5月25日[13] 1686年12月20日[14] ウィリアム・ストートン[15]
エドマンド・アンドロス 1686年12月20日[14] 1689年4月18日[10] フランシス・ニコルソン(1688年4月任命)[16]

マサチューセッツ湾直轄植民地 (1692年–1775)

氏名 就任 退任 副総督
ウィリアム・フィップス 1694年11月17日 1692年5月16日 ウィリアム・ストートン
ウィリアム・ストートン(代理) 1694年12月4日 1699年5月26日
リチャード・クート 1699年5月26日 1700年7月17日
ウィリアム・ストートン(代理) 1700年7月22日 1701年7月7日
総督評議会(代理) 1701年7月10日 1702年6月11日 空席
ジョセフ・ダドリー 1702年6月11日 1715年2月4日 トーマス・ポーヴィー
空席
ウィリアム・テイラー
総督評議会(代理) 1715年3月21日 1715年2月4日 空席
ジョセフ・ダドリー 1715年3月21日 1715年11月9日 ウィリアム・テイラー
(1702年6月11日 - 1706年1月28日)
ウィリアム・テイラー(代理) 1716年10月5日 1715年11月9日
サミュエル・シュート 1716年10月5日 1723年1月1日 ウィリアム・ダマー
ウィリアム・ダマー 1723年1月2日 1728年7月19日
ウィリアム・バーネット 1728年7月19日 1729年9月7日
ウィリアム・テイラー 1729年9月10日 1730年6月11日
ウィリアム・テイラー(代理) 1730年6月11日 1730年8月10日 ウィリアム・テイラー(1730年7月11日 - 1732年3月1日)
ジョナサン・ベルチャー 1730年8月10日 1741年8月14日 空席
ウィリアム・シャーリー 1741年8月14日 1749年9月11日 スペンサー・フィップス
スペンサー・フィップス(代理) 1753年8月7日 1749年9月15日
ウィリアム・シャーリー 1753年8月7日 1756年9月25日
スペンサー・フィップス(代理) 1756年9月25日 1757年4月4日
総督評議会(代理) 1757年4月5日 1757年8月3日 空席
トマス・パウナル 1757年8月3日 1760年6月3日 トマス・ハッチンソン
トマス・ハッチンソン(代理) 1760年6月3日 1760年8月2日
フランシス・バーナード 1760年8月2日 1769年8月1日
トマス・ハッチンソン(代理) 1769年8月2日 1774年5月17日 トマス・ハッチンソン
アンドルー・オリヴァー
空席
トマス・ゲイジ 1774年5月17日 1775年10月11日[17] 空席
トーマス・オリヴァー[18]

出典(特記のないもの):[19]

脚注

  1. ^ Grizzard and Smith, p. 189
  2. ^ Moore, p. 46
  3. ^ Moore, p. 79
  4. ^ Gifford et al., p. 205; Capen, p. 53
  5. ^ Adams and Nash, pp. 11, 14, 27
  6. ^ Adams and Nash, pp. 29–31
  7. ^ Moore, p. 244
  8. ^ Capen (p. 54) incorrectly lists Dudley as deputy it was in fact Endecott. Davis, p. 163
  9. ^ a b Moore, p. 393
  10. ^ a b c Moore, p. 385
  11. ^ Moore, p. 226
  12. ^ Capen, pp. 53–54 Hart, p. 1:607
  13. ^ Barnes, p. 54
  14. ^ a b Barnes, p. 69
  15. ^ Barnes, p. 55
  16. ^ Barnes, p. 72
  17. ^ Publications of the Colonial Society of Massachusetts, p. 17:87
  18. ^ Publications of the Colonial Society of Massachusetts, p. 17:96
  19. ^ Massachusetts Royal Commissions, pp. xxxiii–xxxv

参考文献

関連項目


マサチューセッツ植民地総督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 04:11 UTC 版)

トマス・パウナル」の記事における「マサチューセッツ植民地総督」の解説

パウナルは8月初めにボストン到着した暖かく歓迎され8月3日任務就いたその後すぐに戦争関わる危機突入することになったフランス軍ニューヨーク北部ウィリアム・ヘンリー砦向かって進軍しているとの報告があり、そこの軍隊指揮官民兵隊に非常収集掛けていた。パウナルは民兵隊を組織するために精力的に動いたが、その掛け声あまりに遅すぎた。ウィリアム・ヘンリー砦短時日包囲後陥落しその後インディアンによるこの戦争では最悪級の残虐行為起こった1757年9月、パウナルはニュージャージー植民地旅してジョナサン・ベルチャー総督葬儀出席し帰りニューヨーク立ち寄ってラウドン会見した総司令官であるラウドンは、マサチューセッツ植民地議会ラウドン出した様々な要求に対して十分に応えなかったことに不満であり、パウナルにその責任押し付けた。パウナルは民事軍隊介入することに反対し、ラウドン自分の考え実行するために使った脅しは、総督指導していくためには必要であるとしても、植民地議会を動かすためではないと主張した。その会見辛辣なものとなり、ラウドンは後にパウナルの姿勢厳しく批判する手紙ロンドン送り自分の考え政府の「高飛車な」ものにすることを求めたラウドンイギリス軍ボストン市民の家を宿とするよう要求したことに対して植民地議会からの反対に遭遇し援軍用意して行軍させ、力づく宿舎確保する脅した。パウナルは植民地議会がある面ではラウドン要求応ずるよう要求し最後宿屋など公的な空間兵士泊めることを承認する法案署名した。この法案不人気であり、パウナルは、地元新聞からラウドンとその政策支持した否定的に報道された。しかしパウナルとラウドンやり取りは、パウナルが植民地立場痛切に感じ取っていたことを示していた。「この植民地住人イギリス生まれ臣民が持つ自然権付加されている。...これらの権利享受することは、...彼らが抵抗することを励まし勇気づける...残酷な侵略してくる敵に対して」と記した。パウナルは王室指名する総督議会の関係について同様にはっきりしていた。「総督民衆を「追い立て」られないことについて民衆を「導く」努力をせねばならず、一歩一歩足場得られる」ように彼らを導かねばならない。」と記した。パウナルがこれらの考え行動したので、辞任提案された。しかし、ラウドンはパウナルにその地位留まるよう進言した。パウナルは後にイギリス議会法案である1765年宿舎法の一部執筆したが、その法の執行植民地広く抵抗された。 1758年1月、パウナルはイギリスウィリアム・ピット宛てて数通の手紙を書き植民地政府イギリス軍隊文民管理当局の間の関係を取り巻難し問題説明した具体的にロンドン戦争のために植民地遣う費用をより多く支払うよう提案した。この考え実行するには、戦争残り期間で民兵徴兵数をかなり増やすことになり、1758年作戦だけでもマサチューセッツから7,000名を徴兵することになった。パウナルは民兵体系改革を行う法案議会通させることができた。この法案は、パウナルがより柔軟費用かからない組織を得るために求めた変更全て含んでは居らず、地方役人の手民兵に関する権限多く集中させるのだった総督支配権減らしていた)。 これらの改革にも拘わらず民兵徴兵難しく徴兵隊が嫌がらせを受け、石を投げられることも多く幾つかの場合には暴動起きた。しかしパウナルは植民地割り当てられただけの民兵立ち上げ成功し戦争遂行精力的に支援したことで、ウィリアム・ピット貿易委員会、また軍隊新し総司令官ジェームズ・アバークロンビーからの称賛得た。パウナルはこの成功力を得てジェフリー・アマースト将軍に、ペノブスコット湾でフランス軍動き出す可能性対抗して砦を建設するというアイディア提案した。その地域1755年以来度々フロンティア対す襲撃繰り返されており、1758年春にセントジョージ対す大きな攻撃があったばかりだった。このアイディアはその地域への大きな遠征にまで発展しアマースト承認得ただけでなく、議会承認得た。パウナルが遠征率い、パウナル砦の建設監督し同年大きな成功数えた。その成功でこの地域には小さいながらランドラッシュ起こった。 パウナルの政権初期幾分障害があったが、その植民地における人気が、在任長くなるに連れて大きくなった。多く漁師需要について熱心に取り組み軍事当局説得して重荷になるお役所仕事排除させ、地元商人とも付き合った。トマス・ハンコックとその甥のジョン・ハンコックが行事業投資しており、マサチューセッツ離れる時は、その商人集団称賛された。パウナルは独身であり、女好きで、社交界もてはやされたとされている。信仰心強くなかったが、定期的にイングランド国教会礼拝出席した。ただし、土地会衆派教会礼拝にも度々訪れていた。民兵隊の徴兵配置物資調達取り巻異論の多い問題をうまく繕い軍隊植民地要求の間で妥協点交渉した。しかし、副総督トマス・ハッチンソンとの関係は歪が生じた。この二人互い信頼することがなく、パウナルは内部評議会会合からハッチンソン定期的に排除しその代り例え民兵徴兵問題扱わせるなど、任務与えて派遣していた。パウナルが植民地を去る前に最後に行ったことは、長くハッチンソン敵対者だったジェイムズ・オーティス・シニアを議会議長指名することを承認したことだった。 1759年後半、パウナルはウィリアム・ピット手紙書き、「私は(イングランドで)役立てることがあるかもしれない」とマサチューセッツ去ってイングランド戻してもらうことを依頼した伝記作者のジョン・シュッツは、パウナルの要請の下にある真の理由戦争の後半で大きな軍事行動から除外されたことからくる憤懣関連し、また征服されヌーベルフランス軍政府司令官というようなより重要な地位得たいという願望があった可能性もあった、と推測している。歴史家バーナード・ベイリンは、トマス・ハッチンソンのようなシャーリー支持者決定的に嫌悪し信用しなかったことと、そのためにマサチューセッツ政治での内紛要請繋がったのであり、軍隊指揮官との難しい関係も災いしたという意見である。その理由何であれイギリス王ジョージ2世死去に伴い貿易委員会植民地役職者入れ替えようと考え、パウナルにはサウスカロライナ植民地総督地位与えられ、まずはイングランドに行く許可与えられた。民兵徴兵問題ボストン市大火後始末必要性のためにボストン出発が遅れ、実際に出発したのは1760年6月になってからだった。

※この「マサチューセッツ植民地総督」の解説は、「トマス・パウナル」の解説の一部です。
「マサチューセッツ植民地総督」を含む「トマス・パウナル」の記事については、「トマス・パウナル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「マサチューセッツ植民地総督」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マサチューセッツ植民地総督」の関連用語

マサチューセッツ植民地総督のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マサチューセッツ植民地総督のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマサチューセッツ植民地総督 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトマス・パウナル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS