マサチューセッツ植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:52 UTC 版)
「ジョナサン・ベルチャー」の記事における「マサチューセッツ植民地」の解説
ベルチャーはロンドンに居る間に、副総督のダマーをウィリアム・テイラーに換える手配を行い(テイラーは1715年にその地位に指名されていたが、ダマーの指名を働き掛けたことで副総督を辞めていた)、ジェレマイア・ダマー(ベルチャーとの関係はかなり緊張するようになっていた)を植民地のエージェントから解任していた。マサチューセッツに1731年に戻ると歓迎されたが、即座に敵対者とその支持者達を彼が支配していた地位からの追放を始めた。このことで即座にその政治的な武器として庇護者としての権限を自由に使う者という概念を全ての者に植え付けることとなった。 ベルチャーが早期に取り組んだ課題は国家宗教を守るということだった。マサチューセッツでは認められていた熱心な会衆派教会信徒として、特に教会を免税とすることについて、イングランド国教会の信奉者から危険な存在として認識されていた。クエーカー教徒のような比較的少ない数の宗派への免税は進んで容認するつもりだったが、数が多く政治とのつながりもあったイングランド国教会については賛成を拒んでおり、1735年になってそうするよう指示を受けることになって初めて認めた。クエーカー教徒の免税を支持したことでロンドンのクエーカー教徒社会に支持基盤ができた。1735年、ベルチャーはディアフィールドでの会合を采配し、ストックブリッジ・インディアンが会衆派の宣教師を受け入れ、伝道所の建設を認可することになった。この合意に従って1742年頃に建設されたその伝道所は現在も残っており、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されている。 ベルチャーはボストンでの事業の状態を改善しようともした。ヨーロッパに行っている間にドイツの都市で比較的秩序ある市場の様子を目撃する機会があった。これらの経験で得たものを生かして、以前は混乱していたボストンの市場を著しく改善した。ハノーファーに対する好意的な感情があったので、ボストンのある通りにハノーバー通りと名付けることになった。
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